第29話 不明の魔女
私の傷が治癒したことで、ジルはようやく公爵邸に帰ることになった。
「ミラ、なるべく俺も一緒に行動するから。学園に行く時は毎朝迎えに行くし、帰りも送る……一人で危険な行動はするなよ」
ジルはそう言って、私をじっと見つめる。
まるで、少しでも隙を見せれば、私がまたどこかへ消えてしまうとでも思っているかのように。
「わかってるよ、大丈夫」
私は微笑んで返したけれど、ジルの眉間の皺は取れない。
以前よりも、ずっと心配性になってしまった。
それでも、こうして傍にいることで彼が少しでも安心するなら……それだけでいい。
けれど、私かジルのどちらかしか生きられない。
それは変わらない事実だ。
私が死ぬことで、お兄様やジルの両親、そして多くの人が亡くなるとしても──やはり、ジルを犠牲にはできない。
だからこそ願いの魔女を探すのだけれど……もしも見つけられず、何もできないまま私が死んでしまったら。
──ジルは本当に約束通り、前を向いて生きていけるのだろうか?
今回のことで、彼がどれほど傷つくかが予想できてしまった。
だから、もし私が死んだ時のために、残された寿命の一年と少しをかけて、彼が私の死を受け入れやすくなるようにしていきたい。
納得できるように、準備を整えて……。
「ジル……私が死───」
コンコンッ
言いかけた言葉が、扉を叩く音に遮られた。
「ミラリス……!」
扉の向こうから、聞き慣れた声がする。
「ユリスお兄様……!」
そう呼ぶと、お兄様はすぐに部屋へ足を踏み入れた。
「ジルベールくん、これから帰るんだっけ?」
「ああ……」
ジルは短く答えたが、お兄様の言葉に違和感を覚えた。
(ジルベールくん……? そういえば、お兄様がジルのことをそんな風に呼ぶなんて……)
「お兄様とジルは元々知り合いなの?」
気になって問いかけると、お兄様は少し懐かしむような表情を浮かべた。
「子供の時にね、高位貴族の茶会に母上に連れられて行った時に少しね」
「へえ~、私は知らなかったわ」
「ミラは……ほら……」
お兄様は少し言いにくそうに言葉を濁した。
彼は優しいから、両親の話題が出ると今でも気まずそうな顔をする。
──もう十五年も、父も母も私を見てくれないのよ。
そんなこと、とっくに慣れているのに。
「出会っていたかったな……あの頃に」
ジルは冗談めかしく笑いながら、私に視線を向けた。
ジルの言葉に、私は小さく笑った。
「ふふ、それなら私、もっと早くからジルに甘えられたのかしら」
「それはどうだろうな」
ジルは肩をすくめてみせたけれど、どこか優しい表情だった。
そんな穏やかな空気の中で、お兄様がふと咳払いをする。
(私ったら、完全にジルと二人の世界だったわ……)
「……それで、本題なんだけど。ジルベールくんもいる時に聞きたかったんだ」
一瞬、場の空気が引き締まる。
「魔女の家……何があったか、教えてくれないか?」
ジルの隣で、私は一度小さく息を吸う。そして、お兄様の問いにゆっくりと口を開いた。
「……魔女の手帳があった。それから、生命の魔女に会ったの」
「魔女が、そこに……住んでいるのか……?」
お兄様は驚愕し、思わず身を乗り出した。私は静かに首を振る。
「違うの。魔女は……私がキンリーに向かい始めた時から、私の魔力を吸い取っていたみたいで、その魔力で数分間だけ、魔女の家の中だけに姿を現せるようだった」
「それで、何を話したんだ?」
私は、一瞬だけジルの方を見た。彼は黙って私を見守っている。私は覚悟を決めるように頷き、お兄様にすべてを話した。
魔女が言ったこと。
私が本当は双子だったこと。
そして、私の命は17歳の秋までだと告げられていたこと――。
「……お兄様は、知っていたの? 私が双子だったこと」
問いかけると、お兄様は難しい顔をした。
「双子かもしれないとは……でも、生まれてきたのはミラリス一人だったって……」
私は言葉を失った。
この世界には、前世の世界のように医療機器が発達していない。
お腹の中の胎児を詳しく見ることはできず、母親の体調や魔力の乱れから判断するしかない。
けれど――お兄様の表情は、何かを隠しているように見えた。
「お兄様、隠さずにすべて教えてください」
私が真剣な声で言うと、隣にいたジルも頭を下げた。
「俺からも頼みます」
お兄様は大きく息を吐き、視線を落とした。そして、低い声でゆっくりと語り始める。
「ミラリスが生まれたとき……俺は五歳だった。初めての妹が生まれたと大喜びして、産まれたばかりの妹を見に行ったんだ」
懐かしむように微笑みながらも、その表情にはどこか影があった。
「初めて抱き上げたとき、こんなに小さくて愛おしいものが存在するのかと感動したよ……。俺が兄として守らなければいけないとも思った」
お兄様の穏やかな口調が、ふっと途切れる。
「でも……僕ら家族四人で幸せにいられる時間は、すぐに終わった。ミラリスが……喋りだしたんだ」
「……え?」
私は思わず聞き返した。
「私が……産まれたばかりなのに、喋った……?」
お兄様は静かに頷いた。
「『私は魔女。この娘は17歳の秋に死ぬ。死期が来たらこの娘の大事な人間の心臓を授けよ。その時この娘の生命は助かろう。』――確かにそう言った。そして、ミラリスはそのまま眠りについてしまった」
空気が張り詰めた。
「そんな……」
言葉を失った私は、無意識に隣にいたジルの腕を握りしめていた。
ジルもまた、拳を強く握りしめ、真剣なまなざしでお兄様を見つめていた。
「父と母は、その『大事な人間』が自分になることを避けるために、ミラリスとの関わりをなくしたんだ」
お兄様の手が、わずかに震えていた。
「でも俺は……かわいい妹をなかったことのようにするなんて、できなかった」
静かな声が、部屋の中に染み込むように響いた。
お兄様の表情はどこか苦しげで、それでもどこか吹っ切れたようなものも感じられた。ずっと胸の奥に押し込めてきた秘密を、ようやく口にしたのだろう。
(そんな前から、私の運命を知っていたの……?)
胸の奥が冷たくなる。
幼い頃、ずっと遠く感じていた父と母の態度が、急に違う意味を持ち始めた。私を避けていたのではなく、怖れていたのだ――自分たちが「大事な人間」とされることを。
それだけじゃない。
今、ジルもこの場にいる。
――「大事な人間の心臓を捧げろ」
その言葉が意味するものに、彼は気づいてしまっただろうか。
私はそっとジルの方を見た。
ジルは真剣な顔で黙っていた。
けれど、握られた拳は強く震えている。
「その魔女は、なんの魔女だったんだ?」
沈黙を破ったのは、ジルだった。
「いや、ただ『魔女』としか言っていなかった。なんの魔女かはわからない」
お兄様は眉を寄せながら答える。
確かに、ライナとアダラに会ったとき、二人とも自分の役割と名前を聞かずとも教えてくれた。
なのに――彼女は何も言わなかった?
「名前も言っていなかったの……?」
私が尋ねると、お兄様は少し考え込むように目を伏せた。
「名前?」
「うん。私たちが生命の魔女に会ったときは、ライナという名前だと教えてくれたわ」
「いや、それもなかった。ただ一方的に話して、消えたんだ」
「そう……」
私に悪夢を見せているのも、ライナやアダラではなかった。
寝ている私を通してジルに話しかけたのも、一体誰なのだろう。
(その魔女……まだどこかで見ているの?)
「僕が知っているのは、それだけだよ」
お兄様は軽く息を吐いた。
今まで隠していたことが辛かったのだろうか、少しだけ肩の力が抜けたように見える。
「今まで、私を思って隠してくれていたんでしょ? ありがとう、ユリスお兄様」
お兄様は少し驚いたように私を見て、それから目を伏せて微笑んだ。
「……まだ終わってないよ」
まっすぐな瞳が私を射抜く。
「きっとお前は死なない。大丈夫だよ……なんでも協力するから」
その言葉が、どれほど救いだったか。
(私たちはきっと、願いの魔女を探し出す)
その強い決意を胸に、私はそっと拳を握りしめた。