第28話 心の傷
目を覚ますと、ぼんやりとした視界の中に見慣れた天蓋が映った。
(ここ……私の部屋?)
まだ意識がはっきりしない。まぶたが重く、頭も鈍く痛む。それでも、周囲の静けさや、ふわりとした布団の感触に、確かにここが自分の部屋だと理解する。
ゆっくりと視線を動かすと、ベッドのそばに誰かが伏せているのが見えた。夜空のように深い青の髪――ジルだ。
「……ジル?」
喉がひどく乾いていて、かすれた声しか出せなかった。それでも、そっと手を伸ばそうとする。
「っ……!」
腕に鋭い痛みが走り、思った以上に力が入らない。指先がほんのわずかに動くだけで、ほとんど持ち上がらなかった。まるで身体そのものが鉛になったような感覚。相当ひどい怪我をしていたのだと、改めて思い知らされる。
ジルはまだ微動だにせず眠っている。疲れているのだろうか。
(……もしかして、ずっとそばにいてくれたの?)
胸がじんと痛む。どうにかして、その髪に触れたかった。
「ん……」
小さく息をつくような音がして、ジルがわずかに動いた。ゆっくりと顔を上げた彼の髪が揺れ、深い色の瞳が私を映す。
「ミラ……!」
彼の目が大きく見開かれたかと思うと、弾かれたように飛び起きる。
「っ……!」
突然の動きに驚いて肩をすくめると、ジルは一瞬息を呑み、次の瞬間には安堵したように息を吐いた。
「……びっくりするくらいには、回復してきたみたいだな」
「……ジル?」
怪訝そうに名前を呼ぶと、彼はかすかに眉を寄せながら「具合は?」と聞いてきた。
「まだ痛い……けど、それよりも……身体が妙に重い……」
その言葉に、ジルの表情がかすかに曇る。
「怪我のせいだ。熱もまだ高い」
「……そう」
それくらいなら、大したことはない。そう思おうとしたけれど、ジルの顔をよく見ると、ひどくやつれていて、まるで何日もまともに寝ていないように見えた。
「……ジル、あなたこそ……ちゃんと休めてるの?」
思わずそう尋ねると、ジルは一瞬目を伏せた。
「君の兄も、さっきまでいたんだ」
質問に答えず、別のことを口にする。
「……お兄様が?」
少し驚いて聞き返すと、ジルは「そうだ」と静かにうなずいた。
お兄様が……ここに。きっと、ものすごく心配をかけたのだろう。
(でも、ジルだって……)
私の視線の先で、ジルの肩がわずかに落ちる。心なしか、疲れが滲んでいるように見えた。
「昨日ようやくカルバン侯爵邸にたどり着いたんだ。その時に君の父と兄がいてね……」
そう言いながら、ジルはどこか気まずそうに視線をそらした。
きっと、父の態度が冷たかったのだろう。私は何度も経験しているから、容易に想像できる。
「父はいつも、私に興味がないの。気にしないで……」
そう伝えたものの、ジルの表情は変わらなかった。むしろ、ますます沈んでいくようだった。
「君の父、侯爵は知っていたんだ」
「……なにを?」
ジルの唇がわずかに歪む。
「君が……17の寿命だと」
「え……?」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
(お父様が、私の死の運命を知っている……!?)
そんなはずはない。
でも、いま思い返せば――
10歳のとき、私が魔法を使えるとわかった瞬間。
父は驚きもしなかった。むしろ、それを知っていたかのように、まるで当たり前のことのように受け止めていた。
──そして、あのときのお兄様の顔。
ひどく辛そうで、悲しそうで、でも何も言えないというような、あの表情。
(まさか……お兄様も……?)
「侯爵が発する言葉が、あまり心地のいいものじゃなかったから……少しキツく言い返してしまった……」
ジルは私の代わりに悲しい顔をした。
「……ごめん」
「……どうして、ジルが謝るの?」
「君が傷つくってわかっていたのに、伝えずにはいられなかったから」
ジルの声は、いつになく低く沈んでいた。
私は、苦しそうにする彼の表情を見つめながら、静かに目を伏せる。
(私はもう、慣れてしまっているから大丈夫なのに……)
そう思ったはずなのに、胸が締めつけられるように痛かった。
すると、扉が勢いよく開いた。
「ミラリス……!」
「ミラリス様……!」
駆け込んできたのは、ユリスお兄様と侍女のアンだった。
私の姿を目にした瞬間、二人の表情が大きく変わる。お兄様は瞳を潤ませたまま、まるで力が抜けたようにその場に膝をついた。
「ほんと……心配したんだからな……」
震える声が部屋に響く。お兄様の拳はぎゅっと握られ、かすかに震えていた。
「一度は心臓が止まったと聞いた時、俺の心臓が止まりそうだったんだからな!!!」
「え……?」
思わず、私は固まった。
(心臓が……止まった?)
耳の奥で、お兄様の言葉が反響する。
そんなはずはない。だって、私はこうして生きているのに──
混乱する頭で、ゆっくりとジルの方に視線を移す。
ジルは何も言わなかった。ただ、沈んだ瞳でこちらを見ていた。
その眼差しには、どうしようもないほどの苦しみと、拭いきれない恐怖が滲んでいた。
(ジル……?)
彼の表情を見て、背筋に冷たいものが走る。
──本当に、私は一度……。
現実味のない事実に、鼓動が強く打ち鳴らされた。
「僕がついて行くべきだった。ジルベールくんにだけ大変な思いをさせてすまない……」
ユリスお兄様がそう言って、深く頭を下げる。
「……謝ることじゃないさ」
ジルは苦笑しながらも、どこかぎこちない。
「僕はミラリスを守るべき兄なのに、何もできなかった」
お兄様の声には、悔しさと自責の念が滲んでいた。
「そんなこと言わないで……!」
私は思わず言葉を絞り出した。
お兄様がついてきたとしても、あの状況ではどうにもならなかった。
それに、ジルだって必死に私を助けてくれたのだ。
「ジルがいなかったら、私はきっと……」
そこまで言いかけて、喉が詰まる。
「ああ、分かってる」
お兄様は静かにそう言った。
「だからこそ、僕は妹を救う力がないことが悔しいんだ」
言葉が出ない。お兄様は、そんなに私のことを……。
「ミラリス様……ご無事で本当に良かったです」
アンも涙をこぼしながら、そっと私の手を握る。
私は小さく微笑んで、そっとその手を握り返した。
そしてその日から、ジルはより一層、私のそばを離れなくなった。
まるで私がまたどこかへ消えてしまうのではないかと恐れているように、彼は常に私の視界の中にいた。
食事のときも、眠るときも、目を覚ませばすぐそばにジルがいる。
「ジル、少し休んだら?」
何度そう言っても、彼は首を振るばかりだった。
「……傷はまだ治ってないだろ、ミラがまた倒れたら、すぐに気づけるようにしておきたいんだ」
そう言う彼の顔には、どこか焦りと不安の色が浮かんでいた。
私はとても胸が痛くなった。
そして、ジルはしばらく自分の家には帰らなかった。
自分の屋敷に戻るようにと何度か声をかけても、「まだいい」と短く答えるだけ。
まるで私を一人にすることが不安で仕方がないようだった。
──それから五日後。
私はようやく、自分の魔力が完全に戻ったのを感じた。
身体の中を巡る温かな魔力に意識を集中させると、傷が残っていた部分にそっと手をかざす。
ゆっくりと光が広がり、肌が滑らかに再生されていく。
痛みも、傷跡も、まるで最初からなかったかのように消えていった。
「ジル、見て。ちゃんと元通りになったわ」
私は笑顔で振り返る。
でも──ジルの表情は変わらなかった。
「……良かった」
そう呟いた彼の声は、ひどく掠れていた。
治癒魔法で傷を消せても、ジルの中に刻まれた傷までは癒せない。
彼の心には、私以上に深い痛みが残っているのだろう。
(私は助かったのに、ジルはまだ苦しんでいる)
私の傷が消えたことを見届けるように、彼は静かに目を伏せた。
「ジル……」
私はそっと彼の手を取った。
温かいはずの手が、どこかひどく冷たく感じた。
ジルの手を握ると、わずかに指先が震えた。
「もう大丈夫よ、ジル」
そう優しく告げると、彼は小さく息を吐き、わずかに目を細めた。
「……ああ」
それでもまだ、不安が拭いきれないのだろう。
彼の手の力は弱まることなく、私の手をしっかりと握り返していた。
──私の傷は癒えた。けれど、ジルの傷はまだ残ったまま。
それを思うと、私はそっと彼の手に力を込めた。
今度は、私が彼の支えにならなければならない。
静かな空気の中、私はただ、彼の温もりを確かめるようにその手を握り続けた。