第26話 雪の中の襲撃
「おはよう」
目を覚ますと、ジルが幸せそうな顔でこちらを見ていた。
「おはよう、いつから起きてたの?」
「ん〜、わからないな」
「まさか寝てないの?」
ジルはまったく疲れた様子がない。けれど、この人はちょっと……というか、だいぶ超人っぽいところがあるからな。
「ミラの寝顔が可愛すぎてな、一瞬も見逃したくなかったんだ」
「やだ……恥ずかしい」
そう言いながら布団を引き寄せると、ジルはくすっと微笑んだ。
「結婚したら、毎朝見られるんだな」
「結婚……」
その言葉に、心臓がぎゅっと締め付けられた。
(結婚なんて……できるのかな……)
私ははっきりと死の魔女・アダラから聞いた。
私が生き延びるためには、他の魔女の力を借りてジルを犠牲にすること。
それができなければ、私と、ガルガンで死ぬはずだった多くの人々が死ぬ。
つまり──
「私とジルのどちらかが死ぬしかない」
そんな選択、できるわけがない。
ジルを死なせるなんて考えられない。だけど、私が死ねば大勢の人々も死んでしまう……。
どうしたらいいの? 何が正しいの?
「──ミラ?」
ジルが心配そうに覗き込む。
「あ……ごめん」
「大丈夫か?」
「うん、ちょっとボーッとしちゃって」
こんなこと、ジルに知られてはいけない。
もし話してしまったら、きっとジルは迷わず自分が死ぬことを選ぶ。
そんなこと、絶対にさせられない。
気づかれてもダメだ。何も疑われずに、普段通り過ごさなければ。
願いの魔女さえ見つけられれば、きっとすべて上手くいく。誰も死なずに済む。
──そう、強く願い続けよう。
願いの魔女に届くように。
そして、私たちは王都へ帰るために、魔女の家を出た。
山道は静まり返り、雪がさらさらと舞っている。
ここから山頂まで、小屋はひとつもない。
来るときは下りだったから一日でなんとかたどり着けたけれど、帰りはそうはいかない。
天気が荒れれば、足を雪に取られて動けなくなるかもしれない。
そうなれば、丸二日かかったっておかしくない……。
私はそっとジルの隣を見る。
(彼と一緒なら、きっと大丈夫)
私はぎゅっと拳を握りしめた。
今は前を向くしかない。願いの魔女を見つけるまでは──。
◇◇◇
山を登り始めて少しして、ふと気づいた。
(……魔力が、少し戻ってる?)
まだ完全ではないけれど、今なら小さな魔法くらいなら使えそうな気がする。
試しに手をかざして、火の玉を作ってみた。
「……できた」
赤く揺れる小さな炎を見つめて、ほっと息をつく。
ジルと一緒に魔女の家を出てから、ずっと魔力が回復しなくて不安だったけれど、少しずつ戻ってきている。
「ミラ?」
ジルが振り向く。
彼は変わらず冷静な表情で、私を見つめた。
「魔力が少し戻ったみたい」
「そうか、それなら少しは安心だな」
そう言って、彼はすぐ前に向き直る。
私たちは雪深い森の中を進んでいた。ここから王都まではまだ距離がある。
山道は吹雪で視界が悪く、足元も滑りやすい。慎重に進まなければならなかった。
その時──
遠くから、不気味な唸り声が響いた。
「……今の、何?」
ジルはすぐに剣を抜き、魔術陣を展開させた。
「……来るぞ」
ゴウッ、と突風が巻き起こる。
吹雪の中から、巨大な影が現れた。
白い毛むくじゃらの巨体。鋭い牙。氷のような青白い瞳。
(……イエティ!?)
見たことはなかったけれど、昔話に登場する魔物の特徴と一致していた。
イエティの魔力量はおよそ2000ほど……。
強さで言えば、かなりの脅威となる魔物だ。
イエティは低く唸り、巨大な爪を振り上げる。
「下がってろ」
ジルが私の前に立ち、片手を上げた。
次の瞬間──
ゴオオオオッ!!!
彼の放った炎が、イエティを包み込んだ。
魔物は悲鳴を上げる間もなく、燃え盛る炎に飲み込まれ、そのまま雪の上に崩れ落ちた。
……一瞬だった。
ジルは剣を下ろし、念のためにもう一度炎を放つ。
完全に燃え尽きたイエティの骸を確認し、ようやく振り返った。
「大丈夫か?」
私はコクンと頷いた。
でも、その時だった。
突然、背後から強烈な気配を感じる。
「ミラ!!」
ジルの叫びが響くと同時に、背中を凍りつくような殺気が襲った。
振り向く間もなく、鋭い爪が私の左腕を切り裂いた。
「──っ!!」
痛みが全身を駆け巡る。
視界がぐらつき、雪の上に倒れ込んだ。
白い雪が、赤く染まる。
(……なに、これ……すごい血の量……)
傷口がジンジンと熱を持ち、感覚が遠のいていく。
「ミラ!!」
ジルの声が近づいた。
すぐに、ものすごい熱気が辺りを包む。
ゴウッ!!
再び火魔術が炸裂する。
もう一匹のイエティは、一瞬で炎に飲み込まれた。
ジルは剣を抜いたまま、私のもとへ駆け寄る。
「……ミラ!!」
彼の手が、私の肩を支えた。
その顔は、いつもの冷静さを欠いていた。
「ごめん……気をつけてたつもりだったのに……」
私は必死に言葉を絞り出す。
ジルは一瞬だけ傷を見て、すぐに険しい顔になった。
「……ダメだ、ひどい出血だ。すぐに治療しないと」
彼の手が傷口を押さえる。
でも、ジルは魔術学生だ。
治癒魔法は使えない。
私は震える手を伸ばし、魔力を込めた。
(お願い……止血くらいなら……!)
指先にかすかな光が宿る。
でも、それだけだった。傷は塞がらない。
焦りが胸を締め付ける。
「ダメ、全然効かない……!」
歯を食いしばると、ジルが強く息を吐いた。
「……もういい。俺がなんとかする」
そう言って、彼は私を抱きかかえた。
温かい体温が、凍えた体に染み込む。
「このままじゃ危険だ。とにかく、安全な場所を探す」
ジルの腕の中で、私は唇を噛んだ。
(こんな時に、何もできないなんて……)
でも、今は……。
私は静かに目を閉じた。




