第1話 ユラギス草
ミラリス・カルバン、10歳。侯爵家の令嬢である私は、前世の記憶を持っている。
前世では、日本という国に住む17歳の高校生だった。
家族仲も良く、友達もたくさんいて、彼氏もそれなりにいた。
いわゆる “リア充” というやつだったと思う。
最後の記憶は、秋めいた街の帰り道で、見知らぬ男に刺されたところまで。
──通り魔に襲われて、私は死んだのだ。
この記憶を自覚したのは6歳の頃。
不思議と前世の家族や友人に対する寂しさはなく、自分の名前すら思い出せない。
ただ一つはっきりしているのは、転生したこの世界が、前世で読んだ小説「禁断と運命の恋」の舞台であり、私がその悪役令嬢、ミラリス・カルバンだということ。
物語の中でミラリスは、主人公であるアラン王太子とヒロイン・リアラの恋を邪魔し、悪事を働いた末に断罪される。
しかし、この物語にはもう一人の悪役がいる。
──リアラの弟、ジルベール・エルヴァン。
彼は姉であるリアラを愛してしまい、その恋を阻む存在として物語の中で最も厄介な存在だった。
ミラリスの悪事は物語全体に大きな影響を及ぼすほどではなかったはずなのに、
断罪の際、ジルベールは「国外追放」、ミラリスは「処刑」という、驚くほど重い罰を受けることになる。
──つまり、このままでは私はまた17歳の秋に死ぬ。
絶対に、早死にするのだけは御免だ。
だからこそ、10歳の今、私は完璧な淑女を演じている。
本当はどちらかというと、少しやんちゃな性格だけれど……。
退屈でも、苦しくても、命には代えられない。
◇◆◇
「ミラリス様、今日もお庭をお散歩なさいますか?」
侍女のアンが、朝の身支度をしながら尋ねる。
「ええ、今日も天気がいいけれど、敷地外はまだ流行病が怖いものね。お庭の散歩にするわ」
今、外では「ガルカン病」という恐ろしい病が流行している。
感染した者の八割が命を落とす致死率の高い病で、まだ薬は開発されていない。
小説の中では、ある材料が発見され、それをもとに薬が作られることになっていたはずだけれど……
まだその時は訪れていないらしい。
この病が蔓延してからというもの、侯爵家では感染を防ぐため、外出を控えるようになった。
朝の庭園の散歩は、そんな生活の中でのささやかな日課になっている。
「今日もお花はとても綺麗ね」
「ミラリス様の方が綺麗でございますよ」
「あら、アン。そんなに褒めても、お給金は上げられなくてよ?」
冗談を交わしながら歩いていると、庭師のベックが作業をしている姿が見えた。
「おはよう、ベック。今日も素敵なお庭をありがとう」
「おはようございます、ミラリス様。今日も天気がいいですね」
ベックは、前世でいうサンタクロースのような風貌をした優しい老人だ。
「ベック、今は何の作業をしているの?」
「ピュキスの花の周りに生えるユラギス草を抜いているんです。
ユラギス草は、ピュキスの栄養を吸い取ってしまうので」
ピュキスの花は、空のように真っ青な小ぶりの花で、とても幻想的な美しい花だった。
その周りにだけ生えるユラギス草は、アメジストのような深い紫色をしていて、草にしては珍しい色合いをしている。
──……これは、もしかして……。
私の脳裏に、小説のとある場面が蘇った。
このユラギス草こそが、後にガルカン病の特効薬となる材料だったはず。
嫌なことに気づいてしまった。
でも、どうすればいい?
今、誰かに「ユラギス草が薬になる」と伝えたとして、誰が信じる?
それに、私は目立たず静かに生きると決めたのだ。
下手に知識を披露すれば、思わぬ波紋を呼び、ストーリーを狂わせてしまうかもしれない。
何より、これを機に注目されてしまえば、処刑ルートを避けるための努力が水の泡になる。
……けれど、何もしなければ、病に苦しむ人々を見殺しにすることになる。
気づきたくなかった。
だが、私は迷った末に、その事実を胸にしまい込むことにした。
私は生き延びるために、悪役令嬢として生まれた自分を貫くしかないのだから。