プロローグ
──絶対におかしい……。
「っ……お願い……待って……っ」
声にならない息が、熱を帯びて宙に溶けていく。
大きなベッドの上、私はジルに組み敷かれ、逃げ場を失っていた。
細く白い手首は、彼の温かい掌にしっかりと押さえつけられ、身じろぎするたびに、指先が甘く肌を撫でる。
サファイアのような瞳が、私を見下ろしていた。
熱に潤み、愛しげに私を映したかと思えば、次の瞬間には何かに怯えるように揺れ、酷く辛そうな色を帯びる。
「俺から絶対に離れてはダメだ」
掠れるような声で囁かれると、胸の奥がぎゅっと痛む。
「ジル……っ」
必死に呼びかけるけれど、彼はただ深く息を吐き、私の額にそっと口づけた。
まるで自分を落ち着かせるように。
──どうして?
なぜ、彼はヒロインではなく、私を選ぶのだろう?
物語の運命を、私が少しばかり狂わせてしまったせい……?
本来、彼は冷酷な悪役公爵となり、私は悪役令嬢として断罪されるはずだった。
なのに──
「……怒ってるのか?」
ジルはふっと微笑み、私の頬に落ちる乱れた髪を、指先で優しく梳いた。
「……かわいいな」
静かに囁く声は甘く、けれどどこか焦燥に満ちていた。
「な……っ、ジル……!」
精一杯の怒りを込めて睨みつける。
けれど、彼はその視線すらも愛おしそうに受け止めると、ためらいもなく再び私の唇を塞いだ。
「ん……っ」
拒めないほど、優しくて深い口づけ。
絡め取られるように、息ごと奪われる。
──おかしい。
おかしいはずなのに、どうしてこんなにも心が震えるの?
こんなにも重い愛が、どうして私は──嬉しくてたまらない?
……もしかしたら、これは神様がくれたチャンスなのかもしれない。
悪役同士だった私たちが、バッドエンドではなく、ハッピーエンドを迎えるための。
ならば私は──
この愛を、全身で受け止めて生きていく。
たとえ、それがどれほど狂おしいものだとしても──。