疑心と期待
翌日、真琴は手持ちのスケジュールを確認しながらカフェで一人スマートフォンをいじっていた。
神谷颯太と会うのは来週の昼下がり。
相手はそう急いでもいないらしく、秘書からは「ゆっくりお話を伺いたい」と告げられただけだった。
本当に執筆を依頼したいのか、それとも何か他の意図があるのか。
真琴は店の窓ガラス越しに行き交う人々を眺めながら、いまいち気持ちが落ち着かなかった。
「ちょっとすみません。
お忙しいところすみませんけど、少しお聞きしていいですか」
不意に若い女性の声がして、真琴は顔を上げる。
ショートボブがよく似合う、その女性は手にノートを持ち、落ち着いた服装とは裏腹に目がきらきらと光っていた。
「……どなたでしょう」
真琴が声を落として尋ねると、女性は笑顔で名刺を差し出す。
「相沢玲奈といいます。
週刊誌の記者をしてるんですけど、椎名さんですよね。
以前から椎名さんが書いた記事をチェックしていたんです」
真琴は一瞬身構えて、相手の名刺を受け取る。
「こんなところまでどうやって私を」
そう問い返すと、玲奈は慌てた様子で「SNSでカフェの場所が写り込んでいたのを見かけて、もしかしてここかもって」と言いわけのように笑う。
「もしかしてストーカーですか」
苦笑交じりに真琴が言うと、玲奈は大げさに首を振った。
「いえいえ、そんな失礼なまねはしません。
ただ少し、神谷先生についての噂を追ってまして。
椎名さんが何か関わることになっていると聞いたんです」
真琴は胸がざわつく。
神谷颯太と直接会う話はまだ誰にも言っていないし、そもそも昨日電話があったばかりだ。
どこから漏れたのか。
あるいは業界に詳しい人の間では、すでにそれが噂になっているのだろうか。
「どうして私のところへ」
そう問うと、玲奈はノートを少し持ち上げながら、声を潜めるようにして話を続けた。
「神谷先生が次に出すエッセイにゴーストがいるらしいって噂があるんです。
それで調べていたら、椎名さんの名前がちらっと出てきました」
真琴は思わずコーヒーに口をつける。
確かに神谷の依頼は執筆関係かもしれないが、詳細はまったく聞かされていない。
「私、ゴーストライターみたいな仕事はしてますけど……相沢さんの期待に応えられるような情報は何も」
そう返すが、玲奈はあくまで柔らかな笑顔で言葉を続ける。
「私も確証はないんです。
でも、もし神谷先生と深く関わることになったら、その内幕を教えてもらえませんか。
先生の次回作は業界内でいろいろ言われていて、闇が大きい気がするんです」
真琴は少し考え込んだ。
彼女が言う“闇”が何を指すのか分からないが、“文壇の帝王”なら裏事情もありそうだ。
しかし自分が外部に話せることなど、そうそうあるはずもない。
「私に何か掴めれば、ですね」
それだけ答えて席を立とうとすると、玲奈はやや戸惑いながらも「ごめんなさい、急に押しかけちゃって。
でも連絡先だけは……」と申し訳なさそうに名刺の裏に電話番号を書き加える。
真琴は眉をひそめながらもそれを受け取り、バッグにしまった。
店を出て、昼の陽ざしの中を歩きながら真琴は思う。
ゴーストライターとして有名でも、普通なら大作家に直接声をかけられるなんて機会はまずない。
相沢玲奈が探っている“闇”というのがどんなものかは分からないが、自分は今、巻き込まれようとしているのかもしれない。
カフェの看板に映る自分の姿をちらりと見て、真琴は苦笑した。
「放火魔は火の粉を浴びても仕方ないってこと、かな」
そうつぶやき、信号が変わるのを待つ間、緊張で強ばった肩をゆっくり回した。