一通の招待状
電話が鳴った。
真琴はソファーに腰を下ろして書類をめくっていたが、画面に表示された「神谷先生秘書」という文字を見て思わず背筋を伸ばした。
そもそも“文壇の帝王”と呼ばれる神谷颯太と自分には何の接点もないはずだ。
彼の名前をニュースで耳にしても、せいぜい「権力を持つすごい作家なんだろう」程度の印象しかなかった。
それがどうしてこのタイミングで連絡をよこしてきたのか。
スマートフォンを握りしめたまま、真琴は一瞬だけ応答に迷う。
「もしもし、椎名です」
そう名乗ると、相手は丁寧な口調で自己紹介を始めた。
「初めまして、神谷先生の秘書をしております。
先生がぜひ椎名さんに執筆のご相談をしたいと申しておりますが、お時間をいただくことは可能でしょうか」
真琴は礼儀正しい声に戸惑いながらも、相手が取り次ぐ“先生”という言葉の重みを感じ取る。
「私に、ですか。
あまり高尚な文芸は得意ではないと思いますが」
冗談交じりに言ってみても、相手は笑うどころか深刻そうな沈黙で応じる。
「先生は椎名さんの筆力を前から評価しておられました。
どうか一度、お会いしてお話しできませんか」
その言葉に嘘はなさそうだった。
通話を終えると、真琴はソファーに沈み込んで天井を見上げた。
神谷颯太が自分を知っているという事実だけでも、なんとなく気味が悪い。
業界には自分を“放火魔ライター”と揶揄する者が少なくないし、大作家にとっては目を背けたくなる存在だと思っていた。
だが、高額の報酬のにおいも確かにする。
近頃は仕事が減って収入も落ち込んでいたため、思いがけない大口の依頼は魅力的だった。
「どうせ“架空告発”みたいな話をまた書かせるつもりなんでしょ」
そうつぶやきながらも、真琴の胸には別の疑念も湧く。
“あの神谷颯太”が自分なんかに何を求めるのか。
誰もが知る名前の作家が、隠れてゴーストライターを使うなんてあり得ることなのだろうか。
スマートフォンには秘書から送られた日程案のメールが届いていた。
場所は神谷の自宅。
それだけでも、ただならぬ空気が漂うように思える。
真琴は思わず唇をかむ。
人当たりのいい作家が何をやろうと自由だが、自分を直接呼ぶということは、それなりの厚意か下心があるはずだ。
「下手に断ったら、業界での立場が余計に悪くなるかもしれない」
そんな思いも頭をよぎる。
それでも、巨大な権力を持つ人物からの“招待状”が転がり込んできた事実に、真琴は不安と興味を同時に抱えたまま、返信メールの文面を考え続けていた。
エナジードリンクの缶を一気に空け、味気ない炭酸の刺激を舌で受け止める。
これが自分の人生を変える機会になるかもしれない。
あるいは、さらなる泥沼に引きずり込まれる入り口になるかもしれない。
真琴は乱れた髪を手ぐしで整えながら、敬語で書き始めたメールを数度書き直した。
最後に短く「よろしくお願いいたします」と付け加えて送信ボタンを押し、そっと息をつく。
雨音がかすかに弱まっていたが、空はまだ重たい雲に覆われたままだった。




