19
扉を越えてからは少し景色に変化が生まれ、椅子という家具を見つけることが出来たが、しかし根本的にはあまり変化がない。
道幅も、天井の高さも、歩いている床の硬さも、何一つ変わっていない。
歩き続け、クルーズは少し疲れを感じた。変化がないというものは心の持ちようにも大きく影響を与えるものだ。
鬱々とした気持ちが込み上げてきたところで、ふと、クルーズは隣にいるレリーズの顔色を見た。疲れていないだろうかと心配してみたが、しかしそれは全くもって無用の長物であった。
レリーズは何も変わりはしないこの風景を前にして、笑いながらどこか嬉しそうにしていた。まるでクルーズには見えない何かが見えているようだった。
「ん? なに兄さん? 私の顔になにか付いてるの?」
「そうですね。なぜ、そこまで笑顔で入られるのですか?」
「なに? 疲れたの?」
「ええ。流石に疲れましたよ。何も変わらない景色がどこまでも続いていく。散歩でももう少し選択肢がありますし、見える風景だって変わっていきます」
「そうかもね。でも私は今、この状況が少し楽しいよ。知らない道を進んでいくって気持ちがいいもの」
「怖くはないのですか?」
クルーズはそう訊ねてから、即座に愚問だったと察した。この妹は恐れ知らずで、我が道を進む求道者であり、暴力の化身だ。自分の道行きを邪魔するものは平気で蹴り飛ばすような性格上、恐れすら殴り飛ばすだろう。
「怖いよ」
レリーズの笑顔に陰りが見えた。
「…戻りますか?」
自然と口から言葉が転がった。その言葉にレリーズは首を横に振って答えた。
「それはダメだよ」
それはハッキリとした声音だったが、どこか困っているような、どこか煮え切らない思いがあるものだった。クルーズはそれに強く共感を覚える。
「なぜですか? それは手放せなくなった衝動なのかも知れませんよ」
「違うよ兄さん。これは手を離しちゃいけない思い」
優しい、柔らかな笑顔で諭すような声音をレリーズが発した。
いつまでも小さいと思っていた妹に、クルーズは母の面影を見た。
(いつの間にか。いえ、目を背けていただけなのかも知れませんね)
誇らしさと共に、それを上回る後悔にも似た喪失感。魂から何かがゴッソリと削られて、その代わりに暖かい気持ちが沸き起こるような不思議な感覚。
クルーズは自分の情けなさに吐き気を覚えた。
「さ、行こう?」
そう言って手を引くレリーズは、酷く落ち着いた優しい笑顔を浮かべている。クルーズはその笑顔に打ちのめされ、何も言うことが出来なかった。
並ぶではなく、引っ張られる形でクルーズはレリーズに着いていった。
手を引かれて、薄暗い道を歩いていく。クルーズはそれにどこか既視感を覚える。
それが母に手を引かれた時の物だと、クルーズの記憶の奥の方から、その輪郭を露にしてくる。
家の中だというのに、夜になると何か恐ろしい怪物が出てくると怯えていた記憶。
その記憶を思い出すと、クルーズは自然と口から疑問が滑り落ちた。
「なぜ、前へ進めるのですか?」
「そうだね。兄さんは覚えている? 昔、私が小さい頃の話なんだけれど、私は寝る前に飲み物を飲み過ぎて、夜にトイレに行きたくなったの。だけれどどうしても夜が怖くて、兄さんを起こしてしまった時のことを」
「…覚えていません」
レリーズに悲しい顔をさせてしまう自分に、クルーズは酷く落胆した。
「そんな顔しないで兄さん。昔の事だもの、覚えている方がおかしいのよ」
「それでも貴女は覚えているというのに、私が忘れている事実は変わりません」
「もう。それ良くない癖。事実が意味を上回っちゃいけないんだよ?」
「そうかも知れませんが、事実だけが人を測る唯一の指針なのです。言葉では何も変えられませんし、思いだけでは無力すぎます」
「でも私達は家族なの。それなのに言葉すら無意味にしてしまうの?」
「すみません」
「いいよ。許してあげます」
なんとも情けないと思っていると、レリーズが話を再開した。
「兄さんは夜に起こされたというのに全く怒らなくて、そのまま手を引いてトイレまで連れていってくれたのよ」
記憶の箱をひっくり返してどれだけ思い出を探してみても、クルーズはレリーズの言う話が見つからず、途方に暮れた。
しかしそれでも話は進んでいく。
「その時に兄さんが言った言葉を、私はずっと覚えていた。だから私は怖いもの知らずになったんだ」
「なんとなく予想はつきますね。私は兄として妹を大切にする。とかでしょうか?」
「さぁ。なんだろうね~」
答えるつもりの無さそうなレリーズに、クルーズは首をかしげるだけだった。
「ん? あれは…」
そうして歩き続けていると、またしても目の前に大きな壁のような影が遠くに見えた。
それがなんなのか、クルーズたちは話をしながら近付いていった。
「土砂崩れでも起こったのでしょうか?」
「洞窟らしいけど……困った」
岩はなく、殆どが土であるそれは、いったいどこから集まったのか分からないが、高い天井にすら届きかねないほど積み上がっていた。
「どうしますか? 左右も上も塞がっていますよ」
「それは上がってみないと分からないよ」
「足場が悪いので止めませんか?」
「い~や~で~す~。ほら、行こう」
少しだけ強い力で引っ張られ、クルーズは嫌々ながら土の山を登っていった。
実に久しぶりに靴の裏に土の柔らかさを感じる。不安定さと言い換えてもいいものかもしれない。しかし少なくともフローリングの床より安心できる何かがそこにあった。
「兄さん。そこは危ないよ」
「手を離した方が安全ではありませんか?」
「それはそうだけど、そうすると兄さんはその場所から動けなくなっちゃうでしょう?」
「流石にそれはありませんよ」
「じゃあ転がり落ちちゃう?」
「…登りきるという選択肢はないのですか?」
「信用できないな~」
いたずらっ子のような笑みを無邪気に向けられては、クルーズはなにも言い返せない。ただ、ため息を吐いて従うだけだ。
「はぁ…分かりましたよ」
ただでさえ足場が悪いというのに、片手が使えず、そしてバランスも取りづらい。その上で自分だけではなく、手を繋いだレリーズのことも考慮して動かねばならず、クルーズは何度も手を離してしまいたいと思っていた。
そんな時、クルーズは繋いでいた手の先から、「あっ」という短くも不吉な声が聞こえてしまった。
「レリーズ!」
クルーズは直ぐに滑り落ちそうなレリーズを力強く引っ張り上げた。
「うお!とっとっと! あ、危なかったー」
「…やはり手を離しませんか?」
このように手を繋いでいなければ、運動神経のいいレリーズならば滑り落ちるようなミスはしないだろう。そう考えての提案は、レリーズに笑顔で拒否された。
「危なくなったら直ぐに助けられるのに? 手は繋いでいる方がいい」
意見は翻さないと分かり、クルーズは諦めてレリーズの手を強く握った。
「心配で気が気ではありませんね」
「あはは」
空いている片手でレリーズは自分の頭をかいた。
その行動は反省しているというよりは、これかもよろしく、という意味があるとクルーズは見抜いた。
(仕方ないと思ってしまうのも、癖なのでしょうね)
クルーズはため息を1つ溢した。
「せめてゆっくり行きましょうか」
二人三脚と言うには楽になっているとは言い難く、しかし足を引っ張りあっていると言うことは憚れる。そんな不思議な協力を経て、ようやく山の頂点にたどり着く。
土の勾配を登りきった場所には、またしても硬いフローリングが続いていた。登る前より、天井こそ近くなったものの、しかしそれしか違いがない。
「土砂崩れの頂点には、またフローリングですか。はぁ」
意味が分からないことをいちいち口にすることはないが、しかし意味が分からないことにはしっかりとストレスを感じる。
クルーズは山登りを経た疲労とここまで歩いてきた疲労。そしてこの意味が分からないことに対するストレスを全て、ため息にまとめてから吐き出した。
「疲れた?」
「少し、休憩しませんか?」
「うーーん。あ! 良いところに椅子があるよ」
クルーズは息を吐き出すために下に向けていた視線を、レリーズの指差す方向へ向ける。するとそこには、まるで公園の休憩所のような丸い木製のテーブルと椅子があった。
気力をもう1度奮い立たせて、クルーズは少し遠い椅子まで体を動かし、なんとかその椅子に腰を下ろす。
クルーズが椅子の上で疲労感に溶け始めると、レリーズが机の上にある何かを掴んだ。
「なんですか、それは…? ブラシ?」
何を掴んだのかと目を向ければ、それは尻尾用のブラシだった。
そしてそれを持ったレリーズが、椅子に座るクルーズを笑顔で見下ろす。
「……お好きにどうぞ」
疲労感もあり、クルーズは項垂れて全てを諦めた。
レリーズは初めて手を離して、それからクルーズの後ろの椅子に座り、直ぐにクルーズの尻尾に触れた。
「兄さん。誤魔化すような手入れしかしてないよね?」
怒ったような声に、クルーズは謝罪しか口に出せなかった。
フェリオンの尻尾はとうもろこしに近い形の円錐形で、自分で手入れするにそれなりの時間が掛かる。
最近のクルーズにそんな時間はなく、他人に触らせるようなこともしていない。
毛を均されるような心地よい刺激にクルーズは肩の力を抜いた。
自分で手入れをする時には感じることのできない。不思議な眠気。後ろの方から聞こえてくる機嫌の良さそうな鼻歌がより強くクルーズの眠気を駆り立てる。
「ねぇ…兄さん」
「なんですか…?」
「2人きりになりたかったのでしょう? 隠していることを教えて」
クルーズは疲れてしまったのだ。なにもかも全てを置いて、この重みから逃げ出したい気持ちに駆られる。それはきっとここまで歩いてきたから、土砂崩れを登りきったから、そんな言い訳が穏やかな眠気に後押しされる。
「そうですね。レリーズ…貴女はどこまで知っているのですか?」
だがしかし、クルーズは無駄と分かっていて最後の抵抗をした。
無条件で降参することが出来ない愚かな心が、負けると分かっている勝負にでた。もし、レリーズが見当違いのことを言うのなら、その時はそのまま隠しきってしまおうとクルーズは思っていた。しかしそんなことは無いだろうと冷静な思考が言っている。
最後まで死にきれない意地と最後まで目を背けていたいという逃避。その2つがせめぎ合い。わざわざ消極的な敗北を選ぶほどに、クルーズは疲れ果ててしまった。
「そうね。私は…多分もう死んでいるのでしょう?」
ブラッシングを続けながら、なんてことはないようにレリーズは言ってのけた。
「…いつから気付いていましたか?」
「んー。確信はないの。ただ、ダブルさんから人核転写の仮面について聞いたときに、なんとなくその答えに行き着いたの」
クルーズは体を襲う心地よい眠気に、言ってしまったという後悔を乗せて押し流すことで、レリーズの言葉をどこか遠いものとして聞いていた。
「人核転写の仮面は、人に人を上書きする魔道具。だけれど私は私の体のまま。だから私には関係がないと思っていたのだけれど……兄さんは空想拡張現実世界を構成する魔法でルールとして私を軟禁したでしょう? 本来ならば同じ魔法を使ったとしても、空想拡張現実世界を構成するためのバックアップを受けている兄さんには勝てるわけがない」
レリーズが話す思考の道のりは、全てを聞かなくとも殆ど正解に近い確信を得るには十分なものだとクルーズは察した。
「けれど私は軟禁されている屋敷から飛び出すことが出来た。空想拡張現実世界を構成する魔法。つまり魔道具によって増幅された兄さんの魔法に勝ててしまった。正直、抜け出せた時はなぜ勝てたのか分からなかった。その時はそこまで重要じゃないと思って、兄さんが弱っているからと思考を止めていた」
「だけれど、私は兄さんに会う前にダブルさんから人核転写の仮面について聞いたの。そこで私は、それが魔道具であるなら、空想拡張現実世界を構成するための魔道具の中に組み込むことが出来るかも知れないって考えてしまったの。そしてそれを深く考えていく内に、私の中にあった疑問と不都合が全て説明できた」
「兄さんが空想拡張現実世界を構成するための魔道具からのバックアップを受けていたとしても、私は空想拡張現実世界を構成するための魔道具そのもの…つまり空想拡張現実世界そのものだった」
「正解です。しかしなぜ、私が人核転写の仮面を持っていると分かったのでしょうか?」
ここまでの理論は実に分かりやすく、道理に沿ったものだったが、次の言葉は清々しく、いっそ褒めてしまいそうになるほどに投げやりだった。
「ダブルさんがそう予想していたの」
自信満々な声音を発するレリーズは、自分で考えていた訳ではないというのになぜか誇らしげだった。
「…ダブルさんをもう少し警戒するべきでした」
ダブルが人核転写の仮面についてどこで知ったのか考えていくと、クルーズはそれしかないという答えに辿り着く。
「はぁ…外に出しておくか、完全に監視下に置いておくべきでした。防罪庁と共に行動させたのは失敗でした」
思えば空想楽園の黄金に参加させたのも間違いだった。黄金を倒して貰おうと欲張ってしまった。
「…うまくいっていると思っていたのですがね」
クルーズは熱のある吐息を吐き出したが、そこに後悔はなかった。ただ、諦観だけが空に熱を散らした。
しばらくしてからレリーズが椅子から立ち上がった。
「うん。終わったよ。行こっか?」
「…尻尾の手入れをさせてください」
「えーー。大人の女性の尻尾に触るなんて良くないよ」
「兄にとって妹はいつまでも小さなものです。座りなさい」
有無を言わせぬ圧力を込めて、クルーズはレリーズをもう1度椅子に座らせた。




