第2話
「いいんだ。気にするな。この四年間の下積み、本当にご苦労だったな」
先生は優しく微笑み、ねぎらいの言葉をくれた。
「先生……」
今ではすっかり愛想が尽きているものの、当時は憧れていた人だ。
こうして温かい言葉をもらえると、つい顔が綻ぶ。
「よし、手を開いてみろ」
言われるがまま、両手を広げ、先生に見せた。
すると先生は満足そうに頬を緩めた。「うん、なるほど。指導した通り、必死でわら縄を握って全力で引っ張ったんだな。しっかりと掌の皮が擦り剥けてる。これだけ剥けてるってことは、それだけ演技に没頭してたってことだ。偉いぞ、近藤」
「ありがとうございます!」
先生は椅子に座り、足を組んだ。「本当によかったよ。今回の役をお前に任せることができて」
相好を崩し、椅子の背に深くもたれかかりながら、心地よさそうに宙を仰いでいる。
こんな先生の姿を見ることは、今まであまりなかった。
心身を鍛えるため、と称し、移動中でも稽古中でもほとんど座ることがなかったのだ。
今日はよほど疲れているのだろうか。
今なら答えてくれるかもしれない。
リラックスしている先生の姿を見てそう思い、俳優デビューの話をもらってからずっと不思議だったことを尋ねてみることにした。
「あの、質問よろしいでしょうか」
「なんだ、どうした?」
「先生はなぜ、このタイミングで僕をデビューさせてくれようとしたのでしょうか」
この人は、四年も下積みを頑張ったんだからそろそろデビューさせてやろう、などという甘い人ではない。
先生は背もたれから身を起こした。「そんなことは答えるまでもないだろう。私から見て、近藤はようやく一人前の演技力を身に付けた。そう判断したからだ」
「ですが、ここ最近の僕は、新たなる表現方法を見出したということもなく、先生のご指導通り、基本的な発声や表情筋の使い方などの稽古を愚直に繰り返してきただけです」
すると先生は、緩めていた表情を整え、いつもの引き締まった顔に戻った。
「さすがだな、近藤は。そういう細かい部分にも気付けるというのは、俳優にとって必須の能力だ。――じゃあ、正直に言おう。お前をデビューさせようと思ったのは、今回の役は私では無理だからだ」
「先生では無理?」
「ああ。登山家の役でな。わら縄を使って、登山中に滑落してしまった仲間を支えるというシーンがメインとなる役なんだが、私は登山が嫌いなんだよ。だから、体験することができない。いつも言っている通り、体験に基づかないリアリティのない演技をするわけにはいかないからな。私が演じることはできないってわけだ」
初めて聞いた。
先生は日々、体型維持のために好んで運動をしていたので、登山くらい、役作りとなれば平気でやりそうだが、まさかそこまで苦手なものがあったとは。
「リアリティのある演技ができない以上、このオファーは断るしかないなと思っていたんだが、ふとお前の顔が浮かんでな。まだまだ未熟ではあるが、着実に演技力を身に付けてきているし、そろそろチャンスを与えるべきだろうと思って、白羽の矢を立てたわけだ」
「そういうことだったのですね! 大変光栄です!」
なぜ急に演技力を認めてもらえたのかという点はいまだ疑問だったが、先生なりに何か思うところがあったのかもしれない。
そう考え、あまり深くは考えないことにした。
「まあ、そういうわけだ。だから、わら縄を必死で引っ張る稽古のために、厳しく指導をしていたんだ」
「そんな事情があったとは……。感謝の言葉もございません」
「気にするな。――とにかく、頑張れよ近藤。プライムタイムに放送されるテレビドラマだから、爪痕を残せば今後に繋がる。これは千載一遇のチャンスなんだ」
「はい! このチャンス、必ずモノにさせていただきます」
「よし、その意気だ。仕事についての詳しい話は、近いうちにマネージャーの高橋君から連絡させる」
「はい、お待ちしております」
先生は無言で小さく頷いた後、椅子から立ち上がった。「よし、じゃあお前はこのまま稽古を続けていろ。今度は、登山のシーンをしっかりイメージしながらな。私は、用があるから一旦抜ける。二、三時間くらいしたら戻ってくるよ」
「了解致しました」
僕の返事を確認すると、上着を取るためか、先生は部屋の隅にある縦長のロッカーの方へと歩いていった。
「あの、先生」
僕の呼びかけに、先生は足を止めて振り返った。「ん? どうした」
根源的な疑問が沸いた。