下
次の日も、セラはやっぱりそうじをしていました。
家の玄関先をほうきがけ。
その肩にはバーナードがとまって羽づくろいをしています。
散歩から戻ってきた魔女は、そんな彼女に声をかけました。
「おつかれさま。お茶にしない?」
「ありがとうございます。ぜひ」
家の前にある小さなベンチにならんで腰かけて、二人はハーブティーを飲みました。
二人とも黙っていると、木々の間を抜ける風の音が耳もとで何かをささやきます。
どこか遠くからの伝言のような。
それに耳をすましながら、魔女は口を開きました。
「こわくないの?」
なにがです? とはセラは言いませんでした。
「はい。こわくありません。自分が存在し続ける世界の方がこわい」
魔女は少し考えて、もう一つききました。
「さびしがる人もいるんじゃない?」
「いるかもしれません。でもわたしがいなくなった方が助かる人の方がきっと多い」
魔女はまた少し考えました。
今度はもう少し長く。
「あなたがいなくなったら、誰がわたしの家をそうじするの?」
セラはびっくりしたようでした。
彼女も少し考えてから答えました。
「姿をなくしてもおそうじは続けます」
「でも、バーナードがさびしがる」
「彼は平気だと思います」
「わたしだって、さびしいわ」
「それはがまんしてください。たまに部屋をノックしますから」
魔女は手に包んだティーカップを見下ろしました。
ハーブティーはすっかり冷めてしまっていました。
◇◆◇
セラはそれからも毎日、少しずつ存在を失っていきました。
手触りを失いぬくもりを失いにおいを失い形を失いました。
最後に残ったのは声でした。
「魔女さん」
どこからともなく聞こえる声に、魔女は小さくほほえみかけました。
「なに?」
「今日のおそうじがおわりました」
「そう。ありがとう」
「多分、最後のおそうじだと思います」
「そうね。わかってる」
「お別れを言おうと思って」
「お別れじゃないわ。ずっとここでおそうじをしてくれるんでしょう?」
「そうでした」
「忘れちゃいやよ。約束だからね」
「はい」
それから短くない沈黙がありました。
魔女はこわくなって口を開きました。
「まだ、そこにいる?」
「いますよ」
「いなくなる時は言ってね」
「わかってます」
でもそれでも魔女はこわかった。
「ねえ、手をつないでくれる?」
もちろんもうセラに感触はないと知ってはいても。
「つなぎました」
「あなたはなんでおそうじが好きなの?」
「好きというか、わたしにはそれしかできないから。やっている間は、何も考えなくてすみますし」
「そう」
今度こそ沈黙が落ちました。
魔女にももうわかっていました。
これで別れなのだと。
ところで。
むかしむかし、遠いところ、ある国の王さまにやとわれた魔法使いがいました。
ある時王さまが魔法使いに命じました。心を病んだお姫さまを治してほしいと。その子は消えてなくなりたいと、そう思っていました。
魔法使いは、簡単な仕事だと思いました。
自分の魔法使いとしての腕を信じていたし、魔法は万能だって思っていたからです。
でも違った。いえ、万能は万能でした。でも、万能なのがよくなかった。
お姫さまの病を治そうとして、魔法使いは魔法をかけました。
魔法はみんなの願いを全部かなえました。
王さまの、娘を助けたい、という思い。
魔法使いの、仕事をやり遂げたい、という思い。
お姫さまの消えてしまいたいという思い。
全部かなえてお姫さまは消えてしまいました。いなかったことになりました。
魔女はむかしのことを、何も覚えてはいません。
だって、なかったことになったのですから。
ただ、自分の周りでは、その時からずっと続く魔法の力が、人の存在をはがしてしまうということだけを知っています。
それは彼女に与えられた罰なのです。
「さようなら」
そのとき小さく声がして。
「あ……」
魔女は彼女が去っていったのを知ったのです。
でも彼女って誰だっけ?
もう魔女にはわかりませんでした。
◇◆◇
魔女はその日もこの世界の果ての森でひとりぼっちでした。
一人で森の道を、歩いていました。
目的地があったわけではありません。
ただ歩きたいから歩いてた。
肩にはカラスのバーナード。
彼はときどき小首をかしげて何かに聞き入っているようでした。
「バーナード、どうかした?」
カラスはカア、と一声だけ鳴きました。
魔女のとても大きい家には、ちょっと不思議なことが起きます。
帰ってきた魔女は、玄関先にほうきが立てかけてあることに気づきました。
でも使った覚えはないし、そこにはおいていないはずです。
家の中もちょっと不思議。
なにもしていないのに、ちりもほこりも少しもありません。
だれかがおそうじをしてくれたのでしょうか。
誰かがそばにいてくれるようで、ひとりぼっちの魔女は、こわいよりも少しうれしかった。
部屋で本を読んでいると、たまにかすかにノックの音が聞こえます。
思いやりを感じるやさしい音です。
そんなとき、魔女は席から立ち上がる。
そして扉に近寄って、小指のノックを返すのです。
扉の向こうにいる、誰かもわからない誰かさんへと。
(終わり)