魂の暗闇と呼ばれる午前三時
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魂の暗闇と呼ばれる午前三時
ミヨたちが我々の世界で当たり前に受け入れられてから始まったと言える、人類の新しい歴史も今現在に至るまでにはかなり「濃密」な時間を経ていた。だからたとえば魂の暗闇と呼ばれる午前三時にどこかの街角ですれ違ったところで我々は誰も怖がりはしないだろう。むしろ目が合うと必ず彼らは会釈してくるので、ついこちらも返すだけだ。少なくともぞっとして鳥肌の立つことはまずない。
かつてはその存在を巡り、特に夏場など度々テレビで検証されていた科学的、あるいは伝承的議論を垂れ流す状況は酷く彼らを傷つけた。そのことを道徳的、あるいは政治的な側面を持って検証するクソ番組が、今はたまにあるだけだ。もちろんネットの書き込みはどの時代であれ何を対象にしていようとまったく変わりはない……
もちろん私の職場にも何人かのミヨがいる。彼らは揃ってそのような番組が嫌いだったし、ネットに関しては人間よりも遥かに賢く、つまり完全にスルーしていた。
その気持ちぼくにも理解できる気がしますよと言うと、そのうち君が肉体として死んだらもっとよく理解してもらえるだろうね、などと冗談を言う。
「たまに人間になりすまして、ビッチなことを書き込みしちゃう気持ちとかもさ」
揺れる水のような彼らが我々の世界にもたらしたもっとも重大な意味は、もちろん間違いなく<死>に対するものだ。
彼らが、透き通るだけの隣人として普通に暮らすようになった「この世」で、人生における最大の恐れを死とする者は、もうほとんどいないことだろう。恋人の部屋に携帯端末機を忘れる方がよほど恐ろしいと、比喩ではなく思っているに違いない。人類は命というモノの終焉の受け止め方を大きく変えたのだ。まさに人が生きる上での超歴史的な大革命だった。
特に自殺に関して顕著に表れた。世界のどこかで皇族の後を追う殉死でもなければまず起こり得なくなった。
ちなみに世界各国の様々なカルト的教団すら自然と根絶やしとなり、公安警察こそが家族と過ごす時間をどの公務員よりも多く持つことができる、というようなジョークがあるほどだ。
逆に弊害を被ったのは言うまでもなく、心療内科に携わっている者たちなのだが、太古から存在していたイタコよりはまだましというべきなのかもしれない。とにかく人は物理的な衝突で<突然の最後>に見舞われない限り―もちろん突発的な疾患も別だが―いよいよその日、キャパ越えした外的な圧力により内面が潰れ、自らを終の境界線向こうへ追い込むような行為はなくなった。
ジャンプや練炭などは、ともすれば単に恐ろしい寓話のパワーワードかマストアイテムになっているだけ、というのが現状である。ようするに彼らが現れる以前よりも我々はずっとずっとたくましく、ある意味で気楽に生きていけるようになったのだ。