23:16 #1
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植物をダイレクトに感じる強いホップの余韻すら口の中に残らない見事なセゾンを一本飲んでから熱めのシャワーを浴び、大人が一人寝そべると誰も座れなくなる程度でしかない縁側に出た。それと見合うだけの狭くて何も植わってはいない、土の匂いだけがする細やかな庭と、隣家を境える灰色のブリキ波状板を眺めてウインストンを一服する。妻は毎晩まっさらな灰皿と重厚なロックグラスに米焼酎のロックを一杯用意してくれた。
そのような一日でもっとも平和で穏やかなひと時を過ごす間中、今夜の息子は私の傍を離れなかった。
先ほどまで母親とリンゴジュースを巡る必死の交渉を続けながら、それならセブンアップではどうだ? とヤクザみたいな妥協案を私に仲介しろと依頼してきた息子も、早くシャワーを浴びたかった私が突っぱねたことで孤立してしまい、たださえ疲れている、しかも夜の母親を押し切れるわけもなく、結局は牛乳を飲みながら私が風呂場から出てくるのを待っていた。うさぎの事を問うためにだ。
突発的で日常的でもある、執拗に絡みついてくる事態を子育ての一環として私にも経験させる意図とおそらくは息子と夫を触れ合わせる意図もあったのかもしれない。妻はいずれにしろ、息子にとってはまぎれもない夜の深淵であるこんな時間にも拘わらず(セブンアップの件は別だが)好きにさせていた。故に、今はこうして縁側で寝そべる私の背中へ跨り星のないよく晴れた夜風に打たれているのだった……
「そのうちまた赤い雨が降るんだろうな」
「晴れていても星がない夜だからね……」息子も夜空を見上げた。
「面倒くせぇよな、あの雨」
「母ちゃんに内緒で雨賭博に賭けてみなよ」
「お前の小遣いを全部突っ込んでみるか?」
「それは絶対にダメ」
月だけは例外だったが、突然地上に現れた「ミヨ」とリンクして降り始めた赤い雨はよく晴れた夜空に星明かりのない晩から、その後三週間ほどの間には必ず降った。世界中のどの国、どの地域であっても、それらの条件と事象は同じだ。もちろん降雨量はまちまちだったが。
当然、赤い雨にはいくつもの不思議や謎があるわけだが、その最もは雨粒が地上に落ちてしまうとどこも赤くはないことだろう。掌であっても傘の上であっても、屋根でもなんでもどこかに接触するとそれはただの雨になった。水溜まりはただの水溜まりに過ぎなかった。赤い雨がいくら強く降っても血の色をした沼や池は出現しない。つまり空中を落下しているときにだけ雨粒は赤かった。あるいは「赤く見えた」。どんなに優れたカメラ機器を通してもそれを見る我々には赤く見えてしまい、たとえ色覚の者であってもその雨は赤く見えた。あの雨が赤く見えないのは生れてから視力を持たない者に限る。しかしその一方で普段は会話や物音だけの夢をみるらしいそんな彼らのなかには、極まれのことだが朝起きても覚えている夢のなかで「赤い色の雨」が出てきた、という者が世界にはいる。その夢のなかでは、僅かに感じる日常の「光」よりも遥かに「くすんだ光の粒」が降っている、と言うのだ。証明のしようがない主張なので「…まずあり得ない」という脳科学者や心理学者は沢山いるが、そのような人たちが世界にはいる、ということを初めて知った子供のころから私は本当のことだと思っている……