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22:47 #2

 22:47 #2


 今夜も潤いのない擬音で鳴るベルを押したのだが、いつものように妻の影は現れなかった。

もう一度押そうか、自分の鍵で開けてしまおうか迷っているところで、なぜだか小さな影がバタバタと走ってきた。クリスマスと大晦日を除くのならば、毎晩九時過ぎには寝ているはずの息子が十一時に近いこんな時間まで起きていることはなかなか稀である。

 内側から鍵が開けられると、季節の変わり目に迷うような厚手の寝間着へ着替えていた息子が裸足のまま玄関下に降りていて私を見上げる。彼はおかえりを言わず開口一番で聞いてきた。

「ねぇ、うさぎは死ぬほど寂しいと本当に死んじゃうの?」

 さっぱりわからなかったが、生活のリズムを打ち砕いても余りある強い疑問に満ちた、明日への眠さを放棄する眼差しだ。

「お前、まだ寝てねぇのか?」

 起きていてうれしい気もしたが、まさか将棋を指そうとねだられでもしたら厄介だなという思いもよぎった。勝てば悔し泣きされるし、わざと負ければ逆に糾弾される。

「お帰り、お疲れさま」

 たぶん仕事帰りの私よりも妻の方がよほど疲れた顔をしている。

「目が赤いから?」

「赤いって?」小さな体を抱きかかえて上がり框へ持ち上げるとき、おかっぱ頭の上に今しかない子供の匂いを嗅いだ。いつまでもあるものではない、いつもの匂いだ。かつて私や妻も発していて、それを私たちの親も必ず嗅いでいたはず。

「うさぎのことよ」

「うさぎがなんだって?」

 生まれたときは一体どれほどの重さだったのかまったく思い出せないくらいに重くなった身体を下ろし、今夜の妻よりもさらに疲れたスニーカーを脱いだ。

「なんで寂しいと死んじゃうの?」

「ちゃんと揃えてよ」妻は毎晩靴のことを言う。

 私は息子の肩に手をやり台所へ向かった。そして小さなシンクの蛇口で顔と手を洗った。息子は白黒の格子柄のテーブルクロスで覆う食卓の自分の席についていた。

「ぼく考えたんだけど、目が赤いからじゃないかな」

「なんでそう思ったんだ」私も、肉体労働で疲れる腰を労るようにゆっくりと自分の席に着いた。

「だってさ、目が赤いから」

 浅瀬でたゆたう、幼さなきバカさは柔らかな風よりよほど愛おしい。

「そう。その通り」

 別に面倒がったわけではない。目鼻立ちがそこそこ整った妻に似る息子へ、実際的にはほとんど役に立つことはないモノであれ、私とも似る何かを残したいと常に思っている想いからだ。

冷蔵庫から私のビールを取り出す妻の、決して低くはない鼻から漏れた脱力を不思議がる息子へ、彼女は微笑んだ。

「ちゃんと答えてあげてよ。帰ってからずっと気にしているのよ。寝もしないで。よろしくねパパ」    使い終わった栓抜きを引き出しに戻してからこちらにやってきて私の頭を摩る。

 なるほど、パパと呼ぶとは本気で困っているに違いない。

「でも、そもそも本当にそんなことで死ぬのか?」

「私だって知らないけれど、昔から言うわよね」

 そのまま向かいの椅子へ座り、今でも長袖の上にラモーンズTシャツを着て通販カタログをパラパラめくる姿は、まるで確約された永遠の中途であるかのように出会ってから何も変わってはいない。

「今夜も外で食べたんでしょ?」

「あぁ」私は、真冬以外であれば冷えたセゾンビールの小瓶を毎晩一本だけ飲むのだった。

「ぼくも何か飲みたい」

「すごく助かるには助かるけれど、少し寂しいってことはわかってますか? 牛乳以外はダメよ」

「知ってるよ」

「どうだか」座ったばかりの妻は尊敬に値する我慢強さを見せた。溜息を漏らさずにタッチ&ゴー状態で再び立ち上がったのだ。そして冷蔵庫を開けてリンゴジュースのビンを手にする息子の目の高さまでしゃがんだ。彼女は首を振って我々へ諦念の情をにじませた。


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