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いつだか妻の友人が月旅行の土産にくれていた、ちょうど文庫本サイズのどうしようもない(しかし鮮やかに深い秀明黒をした)鉄屑を表札に活用した発想と出来映えに、我ながら改めて納得すると玄関のベルを鳴らした。立てつけの悪くなった、曇り透けるガラス戸の向こうに人影が現れ、玄関の上がり框で腕と腰を伸ばす妻が内側から鍵を開けてくれるのを待った……
濡れたカラスの羽のような色をする鉄屑を表札にしたのは先週末のことだった。六年前に子供を授かって以来、滅多に乗ることのなくなったショベルヘッドで、最近アルビノのウリ坊が頻繁に姿を見せるという滝壺でも見に行こうとしていた日のことだ。連日のテレビニュースで私はそのことを知っていた。しかし夜のうちに降り出した例の赤い雨は今朝になっても降り続けていたのだった。
三日前から白インゲンの詰まるテルテル坊主を軒先に吊ってはいたのだが、やはりここ百年ばかりの新しい迷信では、人工衛星が送ってくる気圧分布図を解析した専門家の予報を覆すことなどなかった。ただもちろん雨の「色」に関しては、実際に降り始めてみなければ擬星化した球体にも、国家試験をパスした、まるでタレントのような専門家でもわからない。つまり「雨賭博」で勝つ者にしてもわからないものなのだ。
今朝、妻が乗って行ったソナー装備車ならまだしも、さすがにあの真っ赤な世界をバイクで二、三時間流す気にはなれなかった。それでも、妻と息子が出払った家に一人でいられるという気楽さは確かにあり、一方では久しぶりだったショベルヘッドの振動と腰ごと持っていかれる加速を味わえない無念さがあり、私の気持ちは定まらないまま、納得のいかない相殺を受け入れるしかなかった。一人で留守する私は一体何をすればよいのかまったく思いつけないでいた。
誰もよくはわからない着色された雨脚の音を聞きながら居間の天井を眺めるのにも辟易したところで、とは言え今日一日を無駄にしてはならないはずだと、ようやく純白の獣が私の内なる滝壺でとことん短い後ろ脚を強く蹴り上げた。
お昼はとっくに過ぎていた。次がいつになるのかわからないほど稀な家族不在の我が家に、理由がどうあれ転がり込んだ有り余る時間を得た夫が一人することは限られているとも言えなくはない。そこで、まず選んだのがかつての職場の友人が餞別としてくれていた人妻温泉(彼のセルフベストコレクション)だ。一時は間違いなく主軸メディアとして飽きることなく、寝静まった我が家で幅を利かせていたのだが、当時同棲状態だった妻といよいよ籍を入れ、人生には余白しかない子供が出来てみると稼働率はグッと減り、やがては恐れに似た感情を持ち決別していた。
家族に嘘をついてめかし込み出かける女が、実は倦怠と無関心の岩戸に閉じた女の春をお股やお口へ再び到来させる中年紳士と奉仕し合っていることなど知りもしない旦那の能天気さを憐れみ出してしまい、大事なお仕事の面接やら仲良しだけの同窓会だという口実で、祖父母に預けられているという名もなき子供たちの退屈な半日を想像するようになったわけだ。するといつも早送りしていた、誰もが緊張している移動中のトークシーンを対岸にだけあるようには思えなくなってきてしまい、気付けば妻子持ちユーザーとしての危機感と罪悪感は一人歩きした。奥ゆかしさは大胆さへ移ろい少女のように甘える11人のママ……
おいおいちょっと待ってくれ! あいつが誰のイレブンにもならないなんて一体誰に断言できる?
以来その「αチップ」を何かしらの端末へ挿入しなくなっていた。