【Case 0】新田佳奈の告白
「ねぇ、先輩。人は恋をすると、可愛くなるといいます」
放課後。屋上。青い空すら橙色に染め上げる太陽が、小さな彼女を縁取っていた。
モンブランみたいにふわふわで、甘くとろける栗色の髪は、ゆるーくカールを巻いている。まだ中学生の幼さを残す顔立ちは、僕にまっすぐ向けられている。
「あぁ、聞いたことはあるけれど」
喉が干上がったみたいに、掠れた声が出る。あのダークブラウンの瞳に閉じ込められた錯覚をした。
新田佳奈は、今年一番の新入生だ。何が一番って、可愛さが。
入学式で名前を呼び上げられた新田が壇上に上がると、言葉通りに会場を掌握した。あくびをしていた男子生徒が急に目を見張り、ひそひそ話をしていた女子生徒の話題をさらう。曰く、「どう考えたって同じ制服じゃない」んだと。
翌日彼女が登校すると、だったの一日でラブレターが下駄箱に投函されていたり。一部の男子生徒が彼女のストーカーを始めた結果、朝礼で注意喚起がなされたり。たかが一生徒のファンクラブができるだけでも驚きなのに、それが女子生徒の主導であったり。
この全てが、一学期の出来事。
新田佳奈とはつまり、全生徒公認の美少女である。
じゃあ、全生徒公認の美少女が、僕に一体何の用なんだろう。
彼女は高校一年生で、僕は高校二年生。彼女は演劇部で、僕は帰宅部。見事に接点なんてないもんだから、夏休みを終えても日焼け一つせず美少女のままの新田が、僕になんの話をするのか。
「ーーふふっ、先輩。緊張してるんですか?」
「うわっ」
思案していると、そんな僕を覗き込むように新田の顔があった。その距離はいつの間にか手を伸ばせば触れられるほどに近づいていて、僕は思わず後退りする。
「ごめんなさい、からかっちゃいました」
ちろりと舌を覗かせて、彼女はいたずらっぽく笑った。よくライトノベルとかで、「くしゃっと笑う」とか言うけれど。口角を持ち上げたその表情は、元々の可愛さをそのまま照らし出している。
「いや、別にいいけど」
「けど?」
なんとか体勢を持ち直して会話をしようとするも、やっぱりその可愛さは反則です。目を逸らし逸らし、たじたじと話す。
「その、用事ってなんなんだよ。まさか、世間話じゃないんだろ」
「えぇ、違いますとも」
「じゃあ、落ち着かないからさ。先にそれを話してよ」
「ふふん、そうですか。聞きたいですか」
促すと、彼女は思わせぶりに、かつ得意げに。その場でくるりと回って、大股に僕から距離を離す。
じっとりと残る暑さに、汗がつうと垂れる。
そして、新田は一つ咳払い。
「今日この日に限って、この屋上は愛のコロッセオ! 逃げる? 降参? そんな日和見の結末は誰を置いても私が許しません。お互いの言葉を武器に、お互いをぶつけ合う。私の想いに決着がつくその日まで、私も先輩も死力を尽くすのです!」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「え? 先輩、何か言ってくれるないんですか?」
「え、あ、うん。上手かったよ」
「なにがですか?!」
あまりにわざとらしく、仰々しく言うもんだから、演劇部の練習に付き合わされたのかと思ったら。どうも、違ったらしい。「うぅ、失敗したぁ」と顔を覆ってうずくまる新田に、どう声をかけたらいいんだろう。
と考えても、今日初めて話す相手に的確なフォローが入れられるなら、僕は高校二年生になるまでガールフレンドのいない人生を歩んでいない。
ただ、そこは学校公認美少女。ただただ狼狽えている僕を驚かすくらい、すっくと立ち上がって。
彼女は僕に言い放ったのだ。
「先輩、一目惚れです。付き合ってください」
◇◆◇
「なぁ、そんなつまらない話、オレはいつまで聞かされりゃあいいんだ?」
「今にして思うんだけどさ。恋をすると可愛くなるって、可愛くなるために俺と付き合ったってことかな」
「ねぇ、お前話聞いてる? わざわざ一緒に授業フケてやった、オレの話」
「河合こそちゃんと聞けよ。授業フケるほどの僕の話」
「オレもそのつもりだったんだけどな」
まさか恋の病とは。河合が肩を竦める。僕はその背中を見上げていた。
真昼間の屋上には僕ら以外誰もいなくて、独り占めするような心地で僕は寝そべっていた。ざらざらと固い地面はいただけなくても、秋の涼やかに澄んだ空気で肺を満たし、眩しい青空で視界を満たすのは心地よい。真っ白でのっぺりとした雲は、ぼーっと眺めていると段々僕に近づいてくるようである。
「センチメンタルは勘弁だぜ。せめて、センチメートルにしてくれ」
「なんだよ、センチメートルな話って」
「そうだな……。例えば、『僕のバナナは最長十五センチメートルだ』とか?」
「誰がそんなセクハラ……」
「お? もしかして短小か?」
「言っとけ」
僕の隣にあぐらをかいた河合が、臍下あたりで下品なジェスチャーをする。最初はくだらないなぁと眺めていたのだけれど、次第にくだらなさすぎて笑えてくる。河合は僕が笑うに合わせて、照れ隠しのような笑いをした。
「んで、なんで呼んだんだよ」
「なんだ、結局聞いてくれるのか」
「暗い顔じゃなくなったからな」
言われて、顔を触った。触ってみても自分の顔なんて分からなくて、その分どんな顔をしていいのかわからなくなった。
……いや、そんなもの、元からわからない。
あの日から、新田に対する僕の感情というものは熱をなくした。情熱がない。必然、それを写す表情もない。
ちょうど、高校受験の頃の心地だ。考えるべきだと分かっていても、その先に繋がるものは曖昧で、まるで他人事のよう。
つまりは、どう切り出すかにも迷う。
僕は河合の背中を見た。僕の隣で空を見上げる河合の、その相応に小さな背中を見て、卑怯な僕は安心する。
さらりと、僕は問いかけていた。
「なぁ、河合。あの日本当に、新田は僕を、好きだったのかな」