平和な昼下がり・・・・そして妻は・・・
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ボーリングが終わったあと、父と調査役は、マリンタワーへ行った。
マリンタワーは頭でっかちの塔で、その展望室は、風に吹かれて少し揺れるのが体感される。そのことを、このとき初めて調査役は知り、恐かったのを覚えている。
父に抱っこされて、望遠鏡を見せてもらった。
望遠鏡を見たのも初めてだったのかどうか、よく覚えていない。
調査役は望遠鏡で、山下公園の様子を見て、それから肉眼で同じ公園を見て、二つの風景を比べたりした。
それから、空を見た。青かった。空は青く、どこまでも続いていた。またなんとなく切ない気持ちになった。
「父ちゃんも、見なよ」少し口を尖らせて、調査役は言った。
父はサンキュー、と言って調査役を降ろし、自分も望遠鏡を見た。調査役は、床の上に立って、大きなガラスの窓ごしに、空を見た。
大空がひろがっていて、すごかった。
床が揺れるのが感じられて少し恐かったが、大空に圧倒されて、その怖さも忘れた。
そして、また変な気持ちになった。ここにいる、この父ちゃんも、いつか死んじゃうんだ、という気持ちである。
前日に、人が死ぬテレビ番組でも見たのかもしれない。
死ということが、調査役の脳裏にあったのだ。
そして無性に悲しくなった。お父ちゃん、いつまでも、元気でいてね、僕はいい子でいるから…と、そんな殊勝なことを、このとき調査役は考えた。そういう思いで、再び、父を見た。
父は望遠鏡に、食い入るようにしてしがみついていた。
少し様子が違った。何かを発見したみたいだった。
「よう!」
知らない大人が、そう言って父の肩をたたいた。
父は望遠鏡から目を離し、肩をたたいた大人を見た。
その大人は、調査役の頭をなでて、元気に微笑んで、喋った。
「大きくなったなあ、坊や」
父はだまって、その大人を見ていた。非常に驚いていた。大人は、また言った。
「望遠鏡で、何が見えた?」
父は驚いた表情で、声も出なかったが、やっと、言った。
「父さんがいたよ。山下公園に」そう言って、しばらく言葉を区切り、また言った。
「…・兄さん、幽霊かい…。今日は変な日だ。兄さんは、とっくの昔に死んだのに」
「ちょっと、帰ってきただけさ」大人は照れ笑いをしながら言った。
「今日は、変な日だな。さっき、マミさんを見た。ものすごく太って、かわいそうなくらいだった。子供をつれてたな」
「石本の子かもしれない」
「そうなのか」
「わからないがね」
「そうだな…。誰とでも寝たから」
「うん。かわいそうだった」
「でも、必死で子供を育ててたみたいだ。子供も、空襲から母を守るんだ、なんて言って、くっついて歩いてたよ。
頭が少し足りないらしい。
かわいそうだった。それより、この望遠鏡の向こうに、父さんがいる。山下公園を散歩してる。僕は驚いた」
「うん。知ってる。父さんも、ちょっと帰ってきたんだ」
「変な日だな。お彼岸でもない、こんなに天気のいい昼に…」
「うちの奥さんもいただろう。公園の中を見てごらん」
「何だって」
父は望遠鏡を見た。
「いいや…。あれ、うちの奥さんがいるぞ…」
大人は言った。「そうだったか。うちの奴は、どこ行ったかな」
「どういうんだろう、今日は」
調査役は、あたりを見回した。
周囲には、望遠鏡が等間隔に設置されていて、どれにも、人が食い入るように見入っていた。
みんな、父と同じような体験をしているように見えた。
「仕事、大変だろう」
父の兄と称する大人が言った。
「うん」父は言った。
「がんばったよな、おまえ」父の兄は言った。
「うん」望遠鏡から目を離し、父は目を潤ませて言った。
「がんばれよな」
「ああ。トシちゃん、死ぬのが早すぎたよな」
トシちゃん、というのは、父の兄の名前である。
「ごめん」
「謝ることないさ。仕方ないさ。結核だったんだ。トシちゃんが謝ることないさ」
父は、まるで子供に帰ったみたいな顔をして泣いていた。
「だめだよ、泣いたりしちゃあ、子供に馬鹿にされるぜ。なあ、僕」
父の兄は調査役に、また笑顔を投げた。
「ああ…」
父は袖で涙をぬぐった。
「この子は、大人になって、今、大変なんだ。
大人になったら、俺とそっくりの姿になるんだけどな、仕事と家庭の問題で病気になって、世界の悪霊につきまとわれてなあ…
お人好しだから。そこは、父親に似てしまったんだな…
それで、空襲にあって、マミの、死んだ子供に頭をピストルで撃たれたところだ」
父は、唖然とした顔をしていた。
「変なことを言うなあ。予言者みたいな。この子はそんな、苦労をするのか…」
「ああ。でも、しっかり、育てなきゃだめだよ。
俺に似て、あくまでがんばる子になる。いい子になる。
そして、この子も、いい子の父になる」
そう言って、トシちゃんは、調査役を抱きかかえた。
そして、望遠鏡を覗かせてくれた。
「ほら、もう一遍、見てご覧」
父が、調査役に言った。
「ほら、死んだ、おじいちゃんが見えるよ…・」
すると、父の兄は言った。
「違うんだな、これが」
「何だって?」
父は口を尖らせた。
「何がみえるんだい?」
父の兄は、いたずらっぽい表情をして笑っていた。
調査役は、望遠鏡を覗き込んだ。
今日は、本当に平和で、おかしな、追憶の日だ。
きっといつか、この日のことを思い出すだろうなあ。
調査役は、そんなことを考えていた。
それが、思い出なのか、現実の今のことなのか、さっぱりわからなくなった。
青空のもと、少し揺れる床の、ちょっと恐いマリンタワーの展望室から、その昼さがり、調査役は、今は亡き父と、さらに大昔に死んでしまった父の兄に囲まれて、平和な山下公園を散歩する人々を、望遠鏡で見た。
父の兄の声がした。
「ほら、見えるだろう?」
「何が見えるの?」
弟の声になった父の声が聞こえる。
「ずうっと、ずうっと、続いてくものさ。そして、いつもいつものことさ。俺やおまえや、あらゆる人間が、ずうっと、ずうっと、続いてくってことや、過去は未来で、未来は過去だってことや、いつもいつも、みんな一人じゃないってこと…・心の中に、誰かが必ず生きてるし、誰かのなかに人はいつも生きてるってこと…」
調査役は望遠鏡を見た。
そして山下公園に発見した。
妻を発見した。
暖かい昼さがり、山下公園を散歩する、妻を発見したのだった。
・・・・・つづく




