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ご病気の調査役  作者: 新庄知慧
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山下公園

62


調査役は、ご病気だった。


意識を取り戻したとき、調査役は子供になっていた。なぜ、子供になってしまったのか、不可解で、まことに、ご病気だった。


調査役の着ている服は、あまりきれいなものではなかったが、当時としては人並みの水準のものだった。貧乏人の、おぼっちゃん、と言ってもいい格好だった。


調査役はレストランの席についていた。


そこは船の甲板の上にあるレストランで、その船は港に係留されて記念館みたいになっている船であった。調査役は考えた。


この船は氷川丸に違いない。デッキの外には海が見え、よく晴れた日で、水面がギラギラと光っていた。頬に手をあてると、火照っていて痛い。火傷しているらしかった。


調査役の前には、40歳くらいの大人が座っている。誰だろうと思ったとたんに、調査役の口から言葉が出た。


「エビフライ」


目の前の大人は、少し笑ってうなずいた。


「おとうちゃんは?」


調査役はまた自然に言葉を口にして、はっと気がついた。お父ちゃん…。そうだ、この人は、父だ。


3年前に死んだ父が、まだ中年になりかかっていたくらいの年齢のときだ。つまり、時代は昭和40年ごろ、ということになる。


「ビールにするよ」


「ビールだけでいいの?」


「うん。お金ないから」そう言って、煙草を出した。


調査役は、しきりと目をしばたいた。眩しいのだ。海の水面に反射している光が強すぎて、眩しくて、目が痛かった。


「こっち、おいで。お父ちゃん、そっち行くから」


父はそう言って、調査役と席を交換した。


そのうち、エビフライ定食が来た。調査役は、それを食べた。


ナイフとフォークの使い方を、いっしょうけんめい、お父ちゃんからおそわった。お父ちゃんにも、ビールがきた。


ビールを飲みながら、煙草をふかし、お父ちゃんは海を見ていた。


あんなにギラギラと光る水を見て、目が痛くないんだろうかと不思議だった。


あのときの父は、ちょうど、今の調査役と同じくらいの年齢だったのだ。その父は、今、子供の調査役の目の前にいる。


なつかしい思い出だった。


調査役の記憶の断片の中でも、最も古いものの一つだった。


なぜ、その記憶が、こんなに鮮明に残っているのか、理由がわからなかった。


その日、理由は知らないが、調査役は父とともに、山下公園を散歩し、氷川丸を見て歩き、そこのレストランで、昼さがりに食事をしたのだった。


しかし、その記憶は、身につまされるような感じで、脳裏にこびりついているのだ。


何らの劇的要素もない、どうでもいい思い出だったのに、思い出すと、切なくて、涙が出そうになる場面だった。


「平和な幼児のころ」というだけのシーン。


…しかし、ひょっとして、誰しも、こんな、どうでもいい何の変哲もないものだけれど、奇妙に貴重な思い出があるものなのだろう。


どうも、今思うに、そのとき氷川丸の上で、調査役は、こんなことを考えていたのだ。


「お父ちゃんは、何が幸福で生きてるんだろう。鉄人28号や鉄腕アトム(当時の調査役にとって、これらは、面白いものの白眉だった。)にも、たいして興味なさそうなのに、何が面白くて生きてるんだろう?」


そして、ひそかに父に同情してさえいたのだ。調査役の記憶では、そういうことになる。


そのとき、父は、何を考えていたのだろうか…・?


そのあと、山下公園のそばにあった、「シーサイド・ボウル」という、ボーリング場に行った。


もちろん、調査役はボーリングなんてやるには年が若すぎた。


父は、そこで町内会の会長さんと会って、ボーリングを少しやったらしい。


そのつきあいをさせられたのだ。調査役は、スコアラーの席にちょこんと座ったり、椅子の横で寝転がったりして、ボウリングを見ていた。「こんなものが、面白いんだろうか?」と軽蔑さえして、見ていた。


そこへ、掃除のおばさんが来た。お化けみたいな、ゾンビみたいな顔をしていた。


彼女は、なんと、セブンマイルにいた怪物みたいな女だった。


そして、調査役よりかなり年上の、中学生くらいの子を連れていた。ばばっちいなりの子だった。


髪の毛はボサボサで、戦災孤児みたいだった。これは、あの、カプセルホテルで、母を捜していた子供だ。


ここから先は、調査役の記憶にもなかったことだ。


父は、ゾンビみたいな顔の掃除のおばさんを見て、驚いたように声をあげた。


「ミサコさんじゃないですか…・」


お化け女も、気がついたようだったが、きまり悪そうに、無言だった。


「その子は…」父はきいた。しかし、お化け女は下を向いたまま、何も言わずに去った。


連れていた少年は、利発そうな感じがした。少年は言った。


「僕たちは、空襲から逃げてるんです。お母さんといっしょに」


そう言って、去っていった。それを見て、町内会長が吹き出しそうになって言った。


「空襲か。こりゃいい」しかし、それから真顔になって言った。「しかし気の毒だな。頭がいかれてるんだ」


「ふうん」父は言った。町内会長は父に聞いた。


「知り合いですか?」


「いえ。まあ…」


父が何を考えたか、調査役には、よくわかった。父は続けて言った。


「似てました。死んだ兄が、終戦のころに、面倒みてやった女性に。


頭がおかしい、変な男に追いかけられてたのを助けました。


たいそうな美人だったが、なにせ白痴で。うちに居候してたこともある。


でも、そのうち、パンパンになった。子供ができたとも聞いてますが。


兄も兄の嫁も、とっくの昔に死んでしまいましたから、よく分かりませんが」


「…・そうですか」町内会長は、返事した。


調査役は、初耳だった。昭和40年頃に、こんなことがあったとは。



・・・・・・・・つづく

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