聖なる抱擁
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激突。
超重量級の衝撃。体が粉々になった。
一瞬か長時間だったか全くわからない意識の空白が生じた。
調査役は目を開けた。隣りを見ると、年かさの刑事がうずくまって、痙攣している。
前の座席に思い切りぶつかったのは調査役と同じだったが、首に無理な圧力がかかったらしい。
首の骨を折ったのだと思った。壊れた笛の音みたいな呼吸音がするのだが、もうすぐ死ぬらしい。
調査役は、体を動かせる。奇跡的に無事だったのだ。
膝の上を見ると、かすかな笑い顔で、生物がエビみたいな格好で丸くうずくまっている。
身を起こして前の座席を見た。
フロントグラスに若い刑事と、食事療法士の女性が首を突っ込んでおり、その二つの首を中心にして、放射状に無数の亀裂が走り、グラスは真っ白に見える。
その向うに、黒煙や火炎が動いている。
運転席と助手席の二人は、既に死んでいるのか全く動かず、ただの肉の塊が割れたガラスに突き刺さっているだけに見えた。
調査役はドアを開けた。
生物を抱えて、外に出た。煙にまかれて、目がうまく開かない。
歩いてみると、膝や腕に痛みが走る。それでも、どうやら歩くことができた。
きっともうすぐ、この自動車は爆発する。逃げなければならない。調査役は、そう思った。
生物を抱えて、調査役はよろけながらも走った。
一般道路の上には、あちこちに、爆弾や飛んできた瓦礫やらによって破壊された自動車が潰れてころがっており、あるものは煙を上げ、あるものは火をふいていた。
逃げ遅れたドライバーが自動車と心中していたり、自動車から路上に投げ出されて、絶命したりしていた。
そして、何人かの、黒焦げになった人間が、調査役のように走り、右往左往していた。
悲鳴や怒声や泣き声が交錯していた。
ずどん、という腹に響く音がした。自動車が爆発したらしい。
しかし、調査役はもうだいぶ長い距離を移動していたから、その爆発音が、自分の乗っていた自動車のものかどうかわからなかった。
街には、どこもかしこも火災が生じていて、死体も寝ていて、建物が崩れ落ち、電信柱が倒れて、火花が飛んでいた。
それで一杯に煙がたちこめていて視界不良で、頻繁に爆発音がした。
爆撃の音とは違うものだった。
爆撃はひとまず、おさまったのだろうか。わからない。
調査役は、最初はめちゃめちゃに走ったが、そのうち、意識して、安全な場所を求めて、よろよろと走った。
しかし、安全な場所など、どこにもありゃしない。
ごみごみして猥雑で、無計画で狭苦しい街並みが、爆弾の雨を受けて燃え上がったのだ。
もともとの混沌が、火炎と黒煙によって掻き回され、死体と肉片をまぶされて、異臭を放つ、一層の混沌にされてしまったのだ。
だから安全な場所など、どこにもありゃしない。
まるで悪夢である。理由の全くわからない悪夢だ。
ここはどこだろう。もう、新宿のあたりだろうか。
煙につつまれた空を見上げると、副都心の高層ビル郡が、もう間近に見えた。爆撃機は、どこへ行ったのだろう?
路上の瓦礫に腰掛けて、腕から血を流して泣いている老人がいた。
「助けて、助けて」老人の泣き声だ。
調査役が、そばを通りかかると、「50年前に戻った、50年前に戻った」と歯がゆそうに唸っていた。
茶髪の若の集団が、やはり血を流して、顔が目だけになったような恐怖の表情で歩いていた。
派手派手の服に、血液の装飾を施されて、奇麗だった。
サラリーマンが、笑いながら、「こりゃあ、タイムスリップじゃねえか」と叫び、自衛隊は何をやってるんだ、ゼロ戦はどこへいった、と騒いでいた。
気違いみたいだった。はほかに、多くの気が狂ったとしか思えない人々がさまよっていた。
街が混沌のどん底にはまってしまい、歌舞伎町の雰囲気だった。世界が歌舞伎町になったみたいだ。
そして、調査役は誰かに後ろから腕を捕まれた。
振り返ると、そこに、粗末な白いドレスの女がいた。
「あ。君は…」
それは、マミだった。
キャンディ・マミである。
白痴の表情だった。何の知性もない、全くの理性も道徳もない、空洞のような白痴がそこに立っていた。
そして、それは、あいかわらずの美人だった。彼女も恐怖していた。
調査役は、マミのあまりに哀れな様子に、いたたまれなくなって言った。
「もう、大丈夫ですよ。爆撃は、もう終わったみたいです…」
そう言っても、爆撃が終わったという確信が、調査役にあったわけではない。
あたりも空も煙でよく見えないし、頻繁に爆発音も聞こえる。いつまた空から爆弾が降ってきても、不思議はないのだった。
マミは顔といい体といい小刻みに震えて、口をわなわなと動かして、調査役に何か訴えていた。
助けを求めているのだろう。
「いっしょに行きましょう。どこが安全なのか、あてはないけど…」
調査役がそう語りかけて、マミの手をとろうとしたき、マミは調査役の手を握らずに、調査役が抱いていた生物に手を出した。
そして、それを奪おうとした。
調査役は驚いたが、マミの表情が、脅えつつも真剣そのものだったので、つい、手の力をゆるめた。
マミは生物を調査役から受け取り、ひしと抱きしめた。
まるで、その生物が、世界で一番大切なものであるかのように。
調査役はその様子に唖然として見入った。
・・・・・つづく




