残酷なキッチン
53
「ひー」という、絞り出すような、生物の声が聞こえた。
調査役は、身を縮めた。生物が、助けを求めて泣いているみたいだった。
そんなことにはおかまいなく、彼女は生物をまな板の上にのせた。
お台所、よく整理されてますね、などといいながら、流しの下から包丁を見つけ出した。
右手にそれを持ち、生物の首の鰓のあたりを持ってまな板に押さえつけた。
生物は、さらに激しく「ひー」と泣いた。目から涙を流した。口が大きく開いて、喉の奥のほうに赤い舌が丸く震えていた。
栄養士の彼女は目を「くわっ」と見開いた。
今しも、哀れな怪物の首に、包丁がおろされようとしていた。
調査役は叫んだ。
「やめろ!」
同時に彼女の腕をつかみ、包丁を取り上げようとした。
彼女の力は強かった。包丁は簡単には奪えなかった。
「よせ!危ないじゃないか。よせ!よせ!よせ!」調査役は叫びつづけた。
彼女は調査役を振り返り、鋭い目でにらみつけた。
恐ろしい目つきだった。
しかし調査役も負けてはいない。彼女の腕を力いっぱいつかみ、彼女の腕はそれに逆らい、二人の腕が絡み合い、力と力が反発し合って、小刻みに震えた。
急に彼女が手の力を抜いた。反動で、包丁が手から飛び、床に落ちて大きな音をたてた。
「なんですか。そんなにムキになって…」彼女は軽蔑するような目つきで言った。
「あんたこそ」調査役は手に痺れを感じながら言った。
まな板の上では、生物が、涙を流し、ひくひくとおびえたような息をしていた。
「これを見て、かわいそうだとは思わないんですか」調査役は彼女をにらみつけた。
「かわいそう?どこが?あなた、気が弱いんですね。それとも、頭が少しいかれてるのかな」
彼女は調査役のそばを離れて、まじまじと調査役を観察した。
「ヤクの影響かしら」
「ヤク?麻薬ですか。そうだ、その話だ。何か私に言い忘れたことがあったっておっしゃてたですよね。その話を聞こうじゃないですか」
彼女は不服そうだった。
「残念だなあ。せっかくの、さばきのチャンスなのに。じゃあ、その話に行きますか」
彼女は、ダイニングルームへと一人でさっさと歩いていった。歩きながら喋る。
「つまりです。あなたは、かなり、麻薬をたしなんでおられるようですね。かなり高級なヒロポン。今時珍しい純度の高いやつ。それが血液検査で判明しました」
「そんな馬鹿な。僕はそんなもの、たしなんじゃいません」
彼女の後からダイニングルームに入り、ソファに腰掛けながら調査役は言った。
「そうですか。だといいんですが。しかし、検査結果は確かです。何度も確認しなおしたんです。
それで、昨日すぐには結果がでませんで、今日、おじゃましました。
このまま警察に届けるのもいいんですが、お取り引きいただいている企業の社員さんですから、善後策を講じるのがよいかと存じまして」
麻薬。また麻薬か。誰かが調査役を陰謀にはめようとしているのか。調査役は言った。
「…善後策っていうのは何です」
「このまま、麻薬をおやめになるのでしたら、このまま、もみ消してはいかがかと」
「それで…。金ですか」
「え?」彼女はとぼけた顔をした。
調査役は彼女に疑いの目を向けた。
「もみ消すなら金がいる。その交渉役に色っぽい女性を派遣する…」
彼女は、肩をすくめて、困ったわね、という感じの笑顔で答えた。
調査役は言った。
「しかし、どうも昨日から変なことばかり起きる。ふらふらと、お宅の病院に行って以来…」
調査役は今、麻薬購入者ではないかという嫌疑をかけられたばかりだ。そこへ、この女が、あなたは麻薬服用者だと言ってやってくる…
調査役は考えた。そして、ひらめいて言った。
「きのう、お宅の病院でもらった薬。中身もよく見てないけど、なんだか白っぽい粉が沢山入ってような気がする」
「あの薬、お飲みになりました?」彼女ははじかれたように言った。
「いいえ」
「そう。それは良かった。実は、あれ、飲んだら大変なんです。麻薬患者の方には、毒になりますから」
「あの薬が麻薬なんじゃないですか?」
「え?」
「お宅の病院は、麻薬の取引をしていて、間違って麻薬を私に出してしまった。それで、それを、あなたは取り戻しにきた。しかし、私は用法にしたがって、すでに麻薬を服用してしまっているだろうから、私のことを、麻薬患者だ、などと言って乗り込んできた」
「何をおっしゃるんですか」彼女は笑った。
笑われて、調査役は、やはり推理に無理があったかな、という気がした。
薬を間違ったというだけなら、麻薬うんぬんといわずに、間違ったから取りにきた、と、ただそう言えばいいのだ。
それとも、この女は、面白がって調査役をからかうために、こんなことを言ったのか?
それとも、もっと大きな陰謀があるのか。その陰謀に、病院ぐるみでグルなのか。
彼女は調査役を見つめて言った。
「色々お考えですね。でも、本当は、心配して来ただけですわ。そう先生に言われてきたんです。お金じゃないですよ。
…やはり、相当にお疲れですわ。血液が濁り切ってるんですわ。だから、麻薬にも手を出したんでしょう。
いろんな妄想にとりつかれるんでしょう。やっぱり、栄養のあるエンブリを食べなきゃいけませんわ…」
そう言って、彼女はコーヒーをすすった。
少し沈黙があって、悲鳴のような音がした。
調査役の携帯電話のベルだった。
・・・・・・つづく




