エンブリ。言葉にならぬ悲しみと怒り
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「麻薬です」
何を言っているのだ。この女も、頭が少しおかしいのか。麻薬?そんなもの、飲むわけがないじゃないか。
…また彼女の声がする。
「私たち、あなたに非常に興味を感じましたのは、麻薬反応がおありになったからなんですよ」
「何ですって?」
「私たち、そういう検査もしてるんです」
調査役は、ぎくりとした。麻薬?
…・あの病院は、この、調査役をめぐる陰謀の発端か?
調査役は、キッチンを出て、彼女のいる応接室に飛び込んだ。
どういう意味です!と言おうとして応接室の中を見て、調査役は目を丸くした。
彼女はソファの上に腰かけて、目の前にある、ガラストップのテーブルの上を見つめていた。
テーブルの上には、頭がいやに巨大で、目が離れ、鰓と背鰭と尻尾を持った、あの生物が乗っていたのだ。
「それは…」調査役は小さく叫んだ。
彼女はにっこり笑って答えた。
「床の上を這い回ってましたよ。私が拾って、ここへ乗せました」
「・・・・それ。驚かれたでしょう」
「何が」
「だってそれ…。怪獣の赤ちゃんみたいじゃないですか」
彼女は首をかしげる。「私の指導通りに、さっそく買ってきたんですね。感心してましたわ。どこに売ってましたか」
「新宿の…コンビニです」
「ね。やっぱり、コンビニとかに、売ってたでしょう」
「それじゃあ、これは…」
「エンブリです」
「エンブリ…」
彼女は平然として、その生物を見つめていた。
生物は、目を閉じたまま、横むきに寝ていた。ときどき、心なしか頭を動かしていた。
調査役は、驚愕の面持ちで、彼女にきいた。
「・・・こういうのは、いま、珍しくないんですか」
「人によっては、珍しいかもしれませんが」
「これは、一体、どういう生き物なんですか」
「生き物じゃありません。食べ物ですわ」
「食べ物…?!」
「私も、詳しいことは知りません」
詳しいことは知らない。
栄養士が、それじゃ困るではないか。
「人間の赤ちゃんの出来損ないみたいな感じもしますが」
「そうも見えますが。でも、料理しちゃえば、わかりません」
「料理…。これを。どうやって…」
「やってみますか。私、研修でしかやったことないんですけど」
彼女は目を輝かせていた。料理実習をしたい、と言わんばかりの顔つきだった。
調査役は、沈黙した。
怪物・・・いや、その、生物、の様子を見た。
自分が料理されることが話し合われているのを、この生物は知っているのだろうか。
心なしか、生物が薄目を開けたように思った。哀れな感じがした。胸が押しつぶされそうな感じがした。
「やはり、これは人間の赤ちゃんでしょう。とても、食べ物とは思えない」調査役は言った。
「人間の赤ちゃんが、こんな状態で生きられるわけないでしょ」
「生きてますか、やっぱり」
「かなり弱ってますけどね」
「どうやって料理するんです」
「茹でて、塩を軽くふったり、から揚げとか、ね。まず、さばいてしまわないと。さばくの、できませんか」
「さばく!!」調査役は、驚き、飛び上がりそうになって、
「・・・すみません。できないんです。魚をさばいたこともない」
と、やっとのことで言った。
「やっぱり、私の出番ですね。1度やったことあります。台所、貸してもらえます?」
調査役は生物の表情を見た。生物はゆっくり欠伸した。可愛らしい感じがした。
「や、やめましょう。こ、これを食べるなんて・・!」
調査役はそう言いながら、彼女の向かいのテーブルにすわった。
「病気に良いんですよ。私の指導に従えませんか」彼女は、少しきつい口調になった。
「それより、この生き物を育てる方法はないですか」
「ええ!?食べ方なら知ってますけど。これを育てるなんて人はいませんよ」
調査役はそれには答えず、生物に見入って、
「…この生き物は、一体、何者なんだろう?」
見れば見るほど不思議な生き物だ。
これを育てたら、何になるのか、だれしも興味を覚えるのではないだろうか。
「エンブリというからには、ブリの一種じゃないかしら。育てるのはまたにして、ちょっと、さばいてみましょう。私、やってみたいんです」
そう言って、彼女はエンブリの頭をわしづかみにして、持ち上げようとした。
生物が口を開けた。声にならない悲鳴が聞こえた。
続いて、臍のあたりに手を差しのべて、彼女はエンブリを両手で持ち上げた。
腹から出た管が下を向き、白い液体が少し流れた。調査役の与えたミルクの残りであろうか。
「料理なんかしなくていいと言ってるじゃありませんか!!」と調査役は叫んだ。
「でも、これ、どうするんです。こうしてほっといても、死んで、腐ってしまうだけですよ。腐ったら、ごみ箱に捨てるだけでしょ。それこそ、かわいそうじゃないですか」
そう言いながら、彼女は生物を持って、勝手にキッチンの方へ歩いて行った。
調査役は彼女の後について行き、台所に入った。
・・・・・つづく




