暗黒街の血液
5
「血液が濁りきってます。とても、30代の人とは思えない…」
女医が、血液検査の結果を見て、目を丸くして言った。その若い女医の声には、感動の趣さえあった。
「そうですか…」
調査役は無感動に言い、女医のほうを見た。
調査役は会社へ行かず、なぜかこの病院へ来てしまった。
会社の健康保険で指定された病院であった。そして精密検査を受けた。
会社の健康診断では、血液や内臓の異常を毎回指摘されていた。しかし、それほど深刻にはとらえなかった。
深刻になる余裕などなかったのだ。仕事と私生活に忙殺されて、自分の体のことを考えることなどできなかったのだ…
女医の次の質問…生活環境などについての問診を想定して、そういう答えを、調査役は心の中に用意してみた。しかし、どこか違う気がした。
ひょっとしたら、病気に近づいていく自分を、楽しんでいたのかも。
そんな高邁な自虐趣味だったのか。
いや、これも違う、と調査役は自答した。つまり、だらしなかっただけなのだ。生活が、だらしなかったのだ。
女医は、検査結果のペーパーに見入ったまま、なかなか次の言葉を口にしなかった。なにか面白いものでも発見したように、静止したままだった。
女医が何も言わないので、調査役はよそ見をしながら、考えごとをした。
…なぜ突然、病院なんかへ来たのだろう?
生活を矯正するきかけを作ろうと思い、自主的に病院へ健康診断にきた…
生活を矯正しようとして?
いや、違う。そんな立派なことはない。
しばし会社から逃げ出したかっただけ。だから、ここへ来た。
確かにそういう気持ちが少しあった。しかし、よく考えてみると、それも少し違う気がした。
ふと、調査役は思った。
…何かに引っ張られて、ここへ来たのだ。
あの、品川駅で降りた3人のことが気になり、石本以外の2人を、どこかで見覚えある人間だと思いつつも思い出せず、何となく、いらいらして歩くうちに、会社とは目と鼻の先にある、この病院に辿り着いた。
何かに引っ張られて、ここまで来てしまった。そうとしか思えない。
調査役は再び女医を見た。引っ張られて来て、こんな人の診断を受けている…
女医は若かった。30歳を少しこえたくらいだろうか。20代でも通りそうだ。
よく街で見かける、少ししゃれた形の丸眼鏡をかけていた。
顔も、どこかあどけない、丸顔だった。どちらかというと、吉本新喜劇のおわらい系。
白衣は着ているが、その下には派手派手のアロハみたいな柄物シャツ、ジーンズは意図的にかそうでないのかわからないが、脱色してあった。
「あたし、実は医者じゃなくて、通りがかりの、ねえちゃんです」といわれても納得できそうだった。
・・・「そんなに、濁ってますか」
調査役は、あまりの沈黙に業を煮やして言った。
「はあー。あら、ごめんなさい。」
そう言ったかと思うと、女医は今度は堰を切ったように、しゃべりはじめた。
・・・つづく