大蔵省課長補佐が?
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「でき心・・・か。・・・・だろうな」
手錠をはめた私服警官らしい男が言った。
「お見逃し下さい…」背広の男が懇願した。
「まあ、次の駅で降りてくれ」私服は冷たく言いはなった。
女の、鋭い声がした。「痴漢!ほら、やっぱり、見てみろ、痴漢だ」
「このへんの人はみんな、目撃者だぞ」私服は言う。「しかし、まずいやりかただったな。みんなの注目をあつめてから、また触るなんて。初心者らしいな」
「はじめてですから」背広の男の声…・
調査役は、はっとした。その背広の男の声には、聞き覚えがあった。
私服警官は、やや同情気味に言った。
「仕事に疲れて、つい、って奴だな。いいよ、ゆっくり話は聞くから」
それから、女に言った。「あなたも、いっしょに、お願いします」
女は頷いた。そして、考え込むような顔をした。
調査役は背伸びして、前の男の背中から顔を出し、その痴漢の顔を確かめようとした。後頭部しか見えない。しかし間違いない、あれは、石本補佐…・
「みなさん、お騒がせしました」私服警官は、まわりの乗客に言った。
調査役は再び窓の方を向き、その痴漢と顔をあわさないようにした。
石本補佐だ。
調査役は驚いた。
大蔵省の課長補佐。調査役の勤める法人の監督部署の課長補佐だった。
月に数回は、調査役は大蔵省に足を運び、石本に会社の資金計画などを説明していた。
こともあろうに、大蔵省の課長補佐が、ガラガラ声の中年女に痴漢行為。
わるくすると、明日のスポーツ新聞あたりにでそうだな…
まあ、最近じゃあ、大蔵省が何をしても誰も驚かないだろうけど…
しかし、担当替えということにはなるかもしれないなあ…
調査役は、そんなことを少し考えた。
しかし、そんな考えも、やがて電車が走り出し、車窓の青空が動き始めると、調査役の頭からは消えてしまった。
青空を見ていたほうがいい。別に、たいした問題じゃない。
電車は、多摩川を渡るところにさしかかった。
広い河川敷、鉄橋のたもとに、ホームレスが作ったダンボールの住居がいくつか見えた。
住人なのだろうか、その住居の近くにときたま見かける、ザンバラ髪をした、汚れた青いチェックのシャツの男が、こちらを見て佇んでいた。
手をあげて、何かサインを送ったみたいに感じた。
背後で、また大きな女の声がした。
「あんた、病気でしょ?」
調査役はぎくりとした。
自分に言われたような気がしたのだ。
しかし違った。
女は、石本課長補佐に語っているらしい。
石本を慰めるような口調だった。
「病気だね。あたしに同情したんだろ。馬鹿だよ、あんた」
石本はどんな反応をしているのだろう。
女が、あんな慰めるような言い方をしたくなるような、悲惨な表情なのだろう。
女は言った。
「あんた、エリートだろ。まずったね。これで出世もないんじゃないか。こんなとこに、マッポが私服でいるなんて、あたしも思わなかったよ。あたしも。しかし、あんた、死にそうな顔してるじゃないか。…ちょっと、おまわりさん…」
「なに?」
「いいよ、あたし、この人、許してなんなよ」
「だめだ。目の前でやったんだから。見逃したら、示しがつかん」
「ばか!」
女は私服警官に言い返した。
次第に言葉が興奮気味になり、言い合いになった。
「あんなの、痴漢じゃない!見逃せ!」
しかしマッポの刑事は、
「とにかく話しを聞いてからだ」
そして女の声・・・
「いいじゃないか!わたしがいいって言ってるんだから」
「だめだ!」
「そんなに点数稼ぎがしたいかよ!」
「なに?!」
「さっきのは、痴漢じゃないよ。あたしが、痴漢されたって言っても、まわりが馬鹿にしてるもんだから、あたしをかわいそうに思って、無理に痴漢してくれたんだよ、きっと・・・」
「まあ、わかった、わかった…。とにかく話をきく…」
「馬鹿!おまえの目は節穴だ」
「なんだね。静かになさい」
「最初に痴漢したのは、この男じゃないよ、この人はあたしに同情して、痴漢のまねごとをやったんだ!」
「もう、いいです…」石本の弱々しい声がした。
「よかないって」女は言った。
「やれやれ」私服は途方にくれたように言った。
・・・・・・・・・・・・・
やがて電車は品川に着いた。
人の波が濁流のように、出口を目指した。
「さあ、行こう」と私服警官の声がし、「まっぴらだ!」という女の叫び声がした。
しかし、この女を含め、この3人は、人の波にもみくちゃになりながら、どうやら電車の外に出たようだった。
調査役は、窓に張りついたままだった。
そして不運にも、ホームを歩いていこうとする3人と顔があってしまった。
調査役は再び驚いた。
調査役が顔みしりだったのは、石本だけではなかった。
ガラス窓ごしではあったが、今、すぐ近くにその3人を見て、気づいた。
その私服警官にも、女にも、調査役は見覚えがあったのだ。
・・・つづく