疲労した夜明け前は、夢の底へ急降下
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調査役は、夜明けに近い街を歩いていた。
カプセルホテルは、実はとても奇妙な場所であり、安眠できる場所ではないと知り、また、あの不愉快な初老のフロントと同じ屋根の下にいることにも我慢ならず、やはり家に帰ることにしたのだ。
時間も少し経過したし、もう、あの外国人たちもいないだろう。
警察に行くのは、とりやめた。
あの丸顔の人の言葉も胸にしみたし、自分がセブンマイルで見た死体は、いずれまともな種類の職業の人間ではないだろうと思うと、警察に通報する必要を感じなくなった。
調査役は、夜明けに近い新宿の街を歩いた。
空は晴れていた。黒から群青を経て、今は昔の小説家の言うような、透明に近いブルーに変化していく過程にあるのだった。
あれほど活発に動き、不夜城の輝きを誇っていた歌舞伎町も、今は次第にひっそりと萎みつつある気配だった。
人の数もさすがに減った。しかし、減ったなりに、十分に歌舞伎街的な人々…・化粧を落としたオカマの人、茶髪・金髪の家出少女・家出少年、そして、国籍不明の外国人が佇んだり歩いたりしている。
調査役は警戒した。
街に外国人は歩いている。あの3人組が、まだうろついている可能性は十分にあるのだ。
と、調査役の歩く道の向こうに、突然、横丁から、男の三人連れが現れた。
あの連中だろうか。もう少しのところで、駅前の通りに出るところだったのに、と調査役は舌打ちした。すぐ横にあった、コンビニエンスストアに飛び込んだ。
コンビニの一番奥にある冷凍庫の前まで、すたすた歩き、商品の棚の間から店の外の歩道を観察した。
調査役は少し緊張した。奴らだろうか?
3人の外国男たちは、眠そうな顔をして通り過ぎた。
それがさっき調査役を追いかけた連中なのか否か、調査役にははっきり言う自信がなかった。
あの連中がそうだ、といえばそうかもしれないし、ちがうと言われればうなずいてしまいそうであった。識別できないほどに、調査役は、眠くて、疲労し切っていたし、空腹でもあった。
ふと、家に帰っても、食事らしいものが何もないことに気づいた。
ついでだから、そこで買い物して帰ることにした。缶詰や乾物や冷凍食品やらを手当たり次第に購入した。
レジには、韓国人らしい若い男がいた。調査役の買い物の量が多かったので、少し驚いた顔をして、それから、ありがとうございます、と心のこもった感じで言った。
この韓国っぽい顔にも見覚えがあるぞ…。調査役は、そう思った。
しかし、今回は、それが誰であるかすぐに思い出した。それは、ニューヨークのセントラル・パークのすぐ北側にあったグロサリーの店員の顔だった。
「ありがとう、ございます」と、ありがとうの後に妙な間をいれて言うのが印象的だった。
なんでニューヨークなんか行ったんだろう?
調査役は考え、思い出した。
そうだ、新婚旅行だ。新婚旅行に行ったときだ。あのとき、妻はあのグロサリーで、アメリカでしか手に入りにくい、松の実みたいな食品を、しきりに買っていたなあ…
コンビニを出て、足早に歩き、駅前まで来た。
駅は眠っていた。まだ薄暗い時間である。始発電車が出発するには間があった。
調査役は、自分が今買い物してきた商品の入った袋を見つめて、触った。
冷たい。非常に冷たい。
そうだ、中には冷凍食品が入っているのだ。調査役は、しまった、と思った。
ここは新宿なのだ、横浜ではない。なんで冷凍食品なんか衝動買いしてしまったのだろう。始発を待って、それから帰ったら、とけてしまう…
調査役は、ベンチに腰掛けて、あくびした。つくづく、疲れていた。それから、財布の中を見て紙幣の枚数を数えた。大丈夫だ。
調査役は駅前のタクシー乗り場に行き、そこからタクシーに乗って、横浜まで帰ることにした。
運転手に行く先を告げて、シートに深く身を沈めた。
少しの間、気分が高ぶって、車窓の外を見ていたが、やはりいつのまにか眠りについてしまい、横浜の自宅に着くまで目はさめなかった。
やがて家に着いた。
もう朝のような光の中、自宅の扉を開け、次に冷蔵庫の扉を開けたと記憶している。
意識が朦朧としたまま、冷蔵庫にコンビニの買い物を袋のままぶちこんだ。
そして、そのままベッドに倒れこみ、意識が途絶えた。真っ暗な眠りの世界に、まっさかさまに転落した。
…・しかし、ほどなく調査役は目覚めた。
せっかく、たっぷり睡眠をとろうとしたのに、どうしたことだ。調査役は、不快な気分で首だけおこし、あたりを見回した。そこは調査役の部屋ではなかった。
これは、夢の中か…
調査役は思った。
そこは、調査役がの祖父の代に住んでいた実家の一室だった。
横浜の本牧町にある狭い一軒家で、狭いながらも洋風の作りの少し洒落た家だった。
そこは、空襲で焼けてしまった家で、調査役はモノクロの写真でしか見たことがない。
調査役の祖父は、当時、確かヨコハマゴムの社員だったはずだ。社会主義運動の活動家だったらしい。詳しいことは知らない。
とにかく、その洋風の家のベッドの上に調査役は寝ていた。
あたりを見ると、みんな白黒だった。壁も天井も、箪笥も何もかもが白黒だった。
その家について、調査役は白黒写真でしか見たことがないのだから、当然といえば当然だろう。
調査役は起き上がり、部屋のドアのところまで歩いていった。
ドアを開けると、そこは日本間であった。畳の上のちゃぶ台を囲んで、調査役の方を見ながら4人家族が座っていた。
それは、もう30年以上も前に死んでしまった祖父と祖母、そして、二人の10代の少年だった。
二人は兄弟なのだ。調査役は知っている。それは、兄が調査役のおじさんで、弟らしいのは、調査役の父なのだ。
・・・・・つづく




