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ご病気の調査役  作者: 新庄知慧
33/64

記憶の深海

33


「いいえ」


丸顔の、その人は首を振った。それから、眼鏡に手をやりながら言った。


「悲鳴なら聞こえました」


「そうですか!」初老のフロントが声をあげた。


「悲鳴なら、たくさん聞こえました。喧嘩もあったかもしれません。」


「やっぱり」そう言って、フロントは安心した様子で、調査役の顔を見た。「証人がいたぜ。幻覚じゃなかったんだ」


丸顔のその人は続けた。「喧嘩も悲鳴も、しょっちゅう聞こえます。ここは、どうもそういう所らしい」


「しょっちゅう聞こえた?」調査役は訝しげな声をあげた。


「ここに、いろいろの人が出入りしていますが、みんな、不幸な方ばかりのようです」


丸顔の人は、冷静な口調だった。


「だから、いさかいごとをしたり、叫んだり、泣いたりしています。しかし最も不幸なのは、くたびれきってしまって、不幸の認識すらない、ご病気の皆さんです」


初老のフロントは、様子がおかしいぞ、という顔をした。


「ご病気の人…」調査役は独り言のようにして言った。


「そう。例えば、血液の濁り切った人ですよ」


丸顔の男は、そう言って、調査役を見つめた。


フロントが首をひねった。「あんた、ここの常連さんでしたかね」


「そうです」丸顔の人が答えた。


「俺も記憶力がなくなったな。ずっとフロントにいるんだが、あんたの顔に見覚えがない」フロントは頭をかかえた。


「どうもすみません。印象が薄くて」丸顔の人は、頭を下げた。


初老のフロントは、さらに質問した「で、何といって喧嘩してたんです」


「それは、お答えしかねます。プライバシーの侵害になるから、ご容赦下さい」丸顔の人は、また頭を下げた。


「どこへ行ったか、教えてくれませんか」初老のフロントが詰め寄った。


「カプセルの中ですよ」


「カプセル?ここの、カプセル?このカプセルベッド?」そう言い、初老の男は、ベッド棚に目をやった。


「ここのベッドのどれかに隠れてるんですか」


丸顔のその人はうなずいた。


「そうか。おい、どう思う?」初老のフロントは調査役に聞いた。


調査役は、その質問に答えなかった。


調査役はひたすら考え続けていたからだ。この丸顔の人のことを…


一体誰だっただろう。今朝がたから、何人もの、見覚えあると思う人に会ってきた。


今度こそ、思い出さなくてはいけない。


そして、調査役は叫んだ。


「あなたのことを、写真で見たことがある」


丸顔の人は、笑顔で言った。


「写真で?そうですか。雑誌か何かでしょうか。しかし私はそんな有名人じゃありませんよ」


調査役は言った。「いや、失礼。どうも今日は、変なんです。知り合いに思える人に、何度もお会いするもんですから」


丸顔の人は、調査役に、笑顔をかえすばかりだった。


「…・やっぱり、幻覚だったのかな。すべて。思い違いか。ここのテレビに映ったことも、幻覚だったのかも知れない」


そう口にしてから、調査役は心の中で、さっきのセブンマイルの死体も、幻覚だったのかもしれない、と思った。


すると、丸顔のその人は、二人に向かって言った。


「喧嘩や、悲鳴の人が、どこに行ったか知りたいなら、耳を澄ましてごらんなさい。ここに並んだカプセルたちの中から、いろいろな声や音が聞こえますから、それをたどっていけば、探し出すことができるかもしれません」


初老のフロントは、いよいよ首をかしげた。調査役を見て、こいつは駄目だ、という顔をした。


しかし、調査役は、丸顔の人に言われたように、耳を澄ますと、このカプセルホテルに、実にさまざまの声がうずまいているのを聞くことができるのだろうという気がした。


さっきもそんな気がしたのだ。ここを、冷凍睡眠装置や死体置場みたいに感じ、さらには深海世界かと思ったりしていたのを思い出した。ここは、本当は、実に奇妙なところかもしれないのだ。


調査役は言った。


「本当に、そうかもしれない。耳を澄ますことができれば…」


丸顔のその人は、また笑顔だった。「もう少し、がんばってみて下さいな…」


初老のフロントは、丸顔のその人の顔と、調査役の顔を見て、こりゃあ両方とも駄目だ、という顔をした。そして言った。


「もう、どうでもいいさ。何だったのか、そのうちわかるだろう。もう疲れたな」それから丸顔の人に謝り、調査役の手を引っ張って、行こうぜ、お帰りはあちら、と言った。


「では、ご機嫌よう…」丸顔の人は言って、サウナのある階へと去ろうとした。


調査役は、なぜか発作的に、その人を呼びとめた。そして、聞いた。


「警察には知らせたほうがいいでしょうか?」


「何を?」その人は振り返って言った。


「何もかもです」調査役は、教えを乞う生徒みたいだった。


「よくわかりませんが。もちろん自由でしょう?でも、私にはわかります」その人は、また笑顔だった。


「わかりますか?」調査役はその人の答えに期待した。


「あなたは、知らせないほうがいいと思っているでしょう?」


調査役は、少し首をかしげた。


「図星ですね」


なぜか調査役はうなずいた。


丸顔の人は、朗らかな調子で言った。


「私に言えることは、まあ、もうすぐ、本当の警察や、本当の検察や、本当の裁判になりますから、あわてなくていいということです。お体を大切に。なぜみんなが病気になったのか、わかる日がきっとやってきます。だからそれまで、病気に負けないで…」


そう言って、その人は去った。


・・・・・つづく



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