カプセルホテル小景
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たばこの煙とともに思う・・・
妻は一体どこへ行ってしまったのだろう…
調査役は、漠然と思った。
そして、今日と言う日は、まことに奇怪な1な日だ、とも思って感慨に浸ったりした。
自分に向って、何かが急速に押し寄せている、そんな気もした。
忙しい毎日に、ただ押し流されて、「やまいだれ」をかぶったような、この調査役は、いったいあと何年生きるのだろう。
人生70年としたら、もう半分以上をきてしまったことになる。いや人生は70年もないかもしれない。
休憩所の灰皿に向って煙を吐きながら、そんな考えが、むくむくと湧いてきた。これもまことに奇妙な現象ではあった。
調査役は腕時計を見た。午前2時。もう寝るか。いや、喉が乾いた。ビールでも飲むか。いやその前に、サウナ風呂にでも入るか。
調査役の頭の中には、またそんな身近のどうでもよいようなことが回転しはじめた。とりあえず、自分のベッドに行こうと、席を立った。
カプセルホテルと言えば、若い頃に何度か利用したし、最近でも仕事が深夜に及んだときに数回は利用している。
そこはただ、泥のように眠るだけの場所であった。何の印象も感想もない場所だった。
しかし今日、追っ手にせまられて、こんな風にして飛び込むと、カプセルホテルは、いつもとは少し違う場所に思えた。
例えば、たくさん並んだベッドの棚は、未来への旅を企図して作られた、冷凍睡眠装置のよういも感じられる。
うすいクリーム色の外観、入口に降ろされた紅色の布製のシャッター、入口の下の方にふられた数字。
歩きながらしみじみ見直すと、これらは、近未来的な感じで、その中には何万年も眠った得体の知れない生物たちが眠っているような感じがする。
あるいは、子宮。
人工の子宮。
未だ生まれたこともなく、今後も生まれるあてのない子供たちが、終わりのない安眠をむさぼっている、硬質プラスチックでできた子宮…
そういえば、セブンマイルの店の部屋も、狭苦しくて、淫猥で、子宮に似たところがあったかもしれない。
あのセブンマイルの部屋にいたゾンビみたいな、一応女であるらしい人物は、何者だったのだろう?
頭に、たんこぶが一杯だった。誰かに、ぶたれ続けた風俗嬢だろうか。
…そうか、あれは、あの「横浜ゆき」か。10年以上前に、調査役が見捨ててしまい、せっかくサービスしようと思ったのに置き去りにされてしまい、店の管理監督者たちに頭をぶたれ続けたのか。
…・10年間も、頭をぶたれ続けたって?その話は、まともじゃない。
しかし、あの悲惨な風貌は驚くべきものだった。やはり、死体が生き返った姿だった。ゾンビである。
「横浜ゆき」は、いったんは死んだのだったか。死んだ者が、生き返ったのか。そしてまた死ぬのか。
ふとベッドの棚の群れを見直すと、それらは、死体安置装置にも見えた。アメリカ映画でみたことのある、警察の地下に作られた、変死体の仮安置施設である。
すると、ここに並んだ施設の中に眠っているのは、死体の群れだ。
そう思うと、調査役はぞっとした。
静寂をやぶり、いきなり、「グガッ」という音がした。
調査役は驚き、足を止めた。そして耳を澄ました。
その音は、もう少し小さく、2回鳴り、やがて安らかな寝息となった。
いびきが鼻か喉に引っかかって、炸裂した音らしかった。
音の正体を知って後も、調査役はそこに立ち止まり、じっとしていた。すると、そこは静寂だけの場所ではないことに気がついた。
無数の、小さな音たちが、カプセルホテルの中に漂っているらしく思えた。
いびきの炸裂音は、その小さな嚆矢に過ぎなかったのだ。
そして、また調査役は奇妙な考えにとらわれるのである。
…今度は、そこが、例えば深海世界に思えたのだ。
音と光のない静寂の世界だと思われていた深海は、終戦直後に行われたイギリス海軍による、音波探知器による探索によって、実は音響に満ち満ちた世界であることがわかったのである、という、何かの本で読んだ話を思い出した。
レイチェル・カーソンの本だっけ?
海底には無数の深海生物たちがいて、ききっき、とかケタケタとかいう信号音を発して、おたがいの位置を確認しあったり、進路を確認したりしていた。
あるいは、求愛の儀式を行ったり、繁殖のための行動にでたりしていた。大きな音は、チョウチンアンコウの親族のそれで、まるで、オヤジのいびきにそっくりなのだった。
そうか、あの深海世界にも、ここは似ていたのだ。さっきのいびきは、丘にあがったチョウチンアンコウの、ご発声であったのだ。
調査役の足元を、緩やかな風が流れた。
しかし、この風とても、音響の一種なのであった。
それは、音楽である。空気が、一定の間隔と波動を生成しながら、振動して流れたのだ。
それは、レゲのリズムに聞こえた。
しかし。まあ、何のことはない、それは、ベッドに装備されたラジオを、イヤホンで誰かが聞いていたが、その音が漏れて、流れていたものだった…・
喫煙席から自分のベッドにたどりつくまでの、わずかな時間に、よくまあ、色々のことが頭に浮ぶものだと、調査役はわれながら呆れた。
そしてやっと、自分の場所である432番にたどりついた。
ベッド棚の2階。入口の紅色のシャッターは下ろされていた。
調査役は、自分の手にしたキーの番号とベッドの番号を見比べた。間違いない。ここだ。
そこが空き家なら、シャッターは開いているはずなのに、閉まっているということは、誰かがその中にいることを意味していた。
おかしい。さっき、ここを通り過ぎつつ確認したときは、空き家だったのに。
調査役は、溜息をついた。また、変なことだ。
調査役は、そのベッドの前に、しばらく茫然と佇んだ。
どうしたものか、考えた。ベッド室の中の気配をうかがった。
やはり中に誰かいるのだろうか。声をかけようかどうしようか、迷った。
・・・しかし、調査役が声をかければ、また何か事件になるのだろう。
ううう。
・・・つづく




