テン・イヤーズ・アフター
25
はっきりと聞こえた。
野村証券?!
調査役は息を呑んだ。
部屋の外にいる、こいつらは、10年以上前に、この店にいた連中なのだろうか。
調査役が野村証券の社員と身分を偽ったのを覚えていたのか?
その調査役が、ここに潜んでいることを知っているのか…・
まさか、そんな。調査役は首を振った。
しかし、いずれにしろ、危機が迫っていることは事実だ。
彼らは片端から部屋の戸を開けてくる。時々ピストルを撃っている。調査役の潜む、この第6番の部屋に来るのも時間の問題だ。
緊張と恐怖。調査役の額に、あぶら汗がにじみ出た。
ついに、ひとつおいて隣の部屋にまで、その追っ手はやってきた。
「どうだ。この部屋にもいないか」
そう言って、引き戸の動く音がした。
と、廊下の二人が、驚いて飛びのいたような足音がした。声は聞こえない。しかし、何か、ただごとでない気配がする。
「やかましいなあ。ほっといてくれないか」
廊下の二人とは、別の声がした。若い男の声。かなりかすれた声。アダモか森進一を思わせた。
しばらく、廊下には沈黙が続いた。それから、また声がした。
「お。おめえが、野村証券か」
「何?俺は証券会社じゃないよ」
「ちょっと、おめえ、不気味だぜ…。その、物騒なものしまいなよ」
「しまったとたんに、そっちが撃たない保証はないだろう。そっちこそ、その、物騒なものを捨ててくれないか」
かすれ声の男が言った。小さい声だが、迫力ある調子だった。
「…・・」
「俺は気がたってる。せっかく、過去を作りかえて、この、暖かい穴の中で身づくろいして、生まれようと思ってたのに、邪魔され
た。だから、気がたってるんだぜ。一人や二人、撃ち殺したって、いっこうに構わねえんだ」
「まあ、待てよ…。おまえと、撃ち合うのが目的じゃない。わかった、ハジキは捨てるが、おめえ、本当に、野村証券じゃないんだな」
「しつこいぞ。俺は違う」
ぼとり、と、銃らしきものが落ちる音がした。
「これでいいか?」
「ああ。じゃあ、とっとと帰ったらどうだ…」かすれ声の若い男が促した。
「まってくれ。俺たちも、仕事で来たんだ。ある男を捜してる。野村証券という名の男だ。ここに、いるはずなんだ」
「知らん」かすれ声が言った。「その証券がいたら、どうだというんだ」
「始末せにゃならんのだ」
「なぜ?」
「金をもらったからだよ…。あれ?おめえ、一人じゃないね。奥に、誰かいるな。女じゃないか」
かすれ声は答えなかった。
「ちょっと昔までは、ここも、ファッションヘルスだったんだがね、今はパブリックスペースだそうだよ。ショバ代さえ払えば、売女
の自由営業も可能だそうだ。お楽しみ中とは知らなかった。すまんね…」そう言って、廊下の二人は笑ったようだった。
かすれ声の男は、怒ってすぐに反撃するのだろうと思ったが、そうはしなかった。代わりに、さらにかすれた声が聞こえた。
「この女は、家出人の人妻だ。その、野村証券とやらの女さ」
なに?調査役は内心で叫んだ。廊下では、男が本当に叫んだ。
「なに?あんた、野村証券を知ってるのか…?」しばらく不信そうにたたずんでいる様子がうかがえた。
「そうかい。これが、あの男の奥さまかよ。へえ。それは知らなかった。なかなか美人じゃないか。典型的な、男好きのする顔だ
な。あんたと駆け落ちしたのかね」
「下らんことを聞くな。今日は、気がたってる」
「…じゃあ、ここで売女をしてたのか、この、野村証券の妻は」
「…まだ言うのかよ。俺は、今日は、本当に気が立ってるんだぜ。ちなみに俺は、今日一人撃ってる。地下鉄の中でね」
「なに?じゃあ、ニュースでやってた、あの…」
「余計なこと言ったか。まあいいや。今度は、俺が質問するよ。おめえらに金をわたして、野村証券をばらせと命じた奴は、一
体、誰だ?」
「それは、おれたちは知らない」
「そうか。本当かよ。嘘じゃねえのか?なんなら、撃ってもいいぜ」
「ほ、本当だよ」
「教えろよ」
「知らない」
「教えろってば…・」
かすれ声の余韻が響き、少し沈黙があり、銃声がした。
ぎょえっ。というような、がま蛙の踏み潰されるみたいな声がして、人が倒れた。
続いて、「うー」という、女の、うめくような声がした。
調査役の妻の声に似ていた。しかし、確認しようと聞き耳をたてたら、女の声はやんでしまった。
また、かすれ声がした。
「教えろよ…」
「待て待て、待て!」今にも銃声が響くかと思われた。凄まじく切迫した雰囲気であった。撃たれなかったほうの男が、焦りに
焦って、「待て」という言葉を連呼した。
・・・・・つづく




