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ご病気の調査役  作者: 新庄知慧
23/64

奇蹟の解放

23



怒鳴り声がした。


「ここは出口じゃねえ!」


調査役は埃っぽい床にうずくまり、せき込んだ。そして、起き上がろうとしてもがいた。また、声がした。


「どこへ行こうってんだ、あんた。まだ時間が早すぎるよ」


調査役は、やっとの思いで立ち上がった。そして、その声の主に向かって言った。


「か、帰るんです」


「まだ、サービスが終わってないだろう。金も払ってないだろう」


声の主は、いがらっぽい声の、痩せ型の、30歳くらいの男で、さっき、廊下の奥で煙草を吸っていた背広の男だった。


「金といったって…」調査役は言った。


「払ったとでもいうのか。ふざけんなよな。払ってないのは見通してるんだ。かわいそうだろ、せっかく、可愛い女の子が仕事しよ


うって、はりきってんのに、帰るなんて」


「しかし、話が、ちがうってば」調査役は言って、立ち去ろうとした。


とたんに、痩せ型の背広男は、はじかれたように動いて、調査役のむなぐらをつかみ、壁に押し付けた。


「おとなしくきいてりゃあ・・」


力まかせに、調査役を壁におしつけた。


「何をするんだ」調査役は叫んだ。


「なあ、お客さん、手荒なまねはしたくないんだ。紳士的にいこうぜ。楽しい年末だろ」


そう言いながら、力まかせに調査役を壁に押しつける。どこが、紳士的だというのだ。


「たのむ。離してくれ。金がないんだよ今日は」


「うそつけ」


「本当だ。今度、必ず来る、きっと来るから、助けてくれ」


調査役は、情けない声をあげて、懇願した。この際、めいっぱい、かわいそうな感じですがった方がいい。


調査役を押さえつける男の後ろを見ると、入り口のドアが開いて、さっきの客引きがのぞきこんでいた。


また、いつのまにか、2人の、相撲部屋の若衆みたいに体格のいい、しかし頭のわるそうな男が二人、ドアの横に立って、じろじ


ろとこちらを見ていた。


調査役は、ここぞとばかりに、泣き喚かんばかりの声をあげた。


「そんなに騒ぐなよ」痩せぎずの男は少し狼狽した声をあげた。


調査役はさらに情けなく懇願した。


「許してください、かならずまた、きますから、ねえ、おねがい」


いちがばちかの大演技だった。


ここも一応は風俗店であって、強盗や殺人が主な業務でないとするなら、こうしてわめいていれば、何とかなるのではないかと


いう読みだった。


それでも、財布の中を確認されて、有り金はすべて、まきあげられるかもしれない。


そうも思ったが、一縷の望みにかけて、調査役は泣き喚いた。


痩せぎすの男の背後から、相撲取りみたいな言った。


「なめてんですよ。やっちまいましょう」


調査役は、ひやりとした。演技しても結局、だめか…


「よし、代われ」男は、調査役をしめあげる役を、今乞声をあげた後ろの若い男にバトンタッチした。


若い相撲取り男は、ものすごい力で、調査役の喉を絞めた。


調査役は、悲鳴もでないほどに恐怖を感じ、苦痛にさいなまれた。


「た、助けて…」そう言ういながら、痩せた男を睨みつけた。そのときの調査役は、亡霊みたいな顔をしていたことだろう。


すると、やせぎすの男が言った。


「また、必ず来るか?」


「はい…」やっとの思いで声をあげた。


「証明できるか」


「はい…」


「名刺はもってるか」


「いいえ」


すると、この野郎、とばかりに、相撲取りみたいな奴は喉を締め上げてきた。


「うううう」


調査役はうなった。


まあ、手荒なまねはすんなよ、と、やせた男が若い男を制した。


調査役は苦しい息で言った。


「勤め先を、教えるから、それで、何とか」


「勤め先?あんた、どこの会社の人だい」


調査役は、とっさに答えた


「の、野村証券…・」


「野村証券。うそつけ」


うそだった。


当時、調査役は野村証券で、流行の株式投資をしていた。それで、野村証券の名前がでただけだった。しかし、調査役は言った。


「う。嘘じゃない」


「じゃあ、電話番号、言えるか」


調査役は、野村証券の東京支店の電話番号をすらすらと言った。


しょっちゅう株価照会をしていたので、電話番号はよく覚えていた。


「そうかよ」やせた男はその番号をメモして、さきほど調査役が料金を払った受付の裏手に行った。


電話がそこにあるらしい。プッシュホンのボタンを押す音がして、しばらく沈黙の時間が流れた。


しばらくして、電話の受話器をおき、痩せた男が出てきた。そして言った。


「いい。離してやれ」


「なんですって!?」


ドアから覗いていた客引きの男が言った。それは、甘いんじゃないか、という声だった。


相撲取りみたいな男二人も、意外だ、という表情だった。


「いい。確かめた。お宅の会社、えらい景気じゃないか。


今日は、帰すから、友達つれて、また来てよ。あの、最初の子に、サービスさせるから」


調査役は驚いた。


金を強奪されるものと観念していたのだが、敵は意外と簡単にだまされた。


この時間に野村証券に電話すれば、社員など出るわけはなく、営業時間外である女性アナウンスが流れるだけだ。


しかし、「野村証券です」とは言うから、たしかに、調査役の言った番号が、野村証券の番号だとは確認できるだろう。


やせた男は、さっきとはうって変わって、ゆったりした笑顔さえ浮かべて、今日は勘弁するから、また来てよな、と言った。


案外、ちょろいもんだ。


と、調査役は内心で思った。


野村証券の名が、それほど威光にあふれたバブルの時代だったし、景気もよかったのだ。


客はまた来ると思ったのかもしれない。今の時代では、こうは行くまい。


「か、かならず来ます、必ず。ごめんなんさい、ごめんなさい」


調査役は、ぺこぺこ頭を下げた。


その様子が滑稽だったのだろう、相撲取りみたいな若い男が、下品な声を上げて笑った。


ドアから覗いていた客ひきも、うすら笑いをうかべた。


「まあ、今度来て、がんばんなよ」痩せた男は、調査役の肩をぽんと叩いた。


そして、調査役を睨んで、にやりと笑いながら言った。「来なかったら、会社に、電話するから…」


「はい」調査役は言った。


「それでも来なかったら、会社に、出かけてから…」


「はい」調査役は、青ざめた表情で答えた。


やせた男と調査役は、にらみ合ったまま、少しの間、沈黙した。


そのとき、女の騒ぐ声がした。


さきほど調査役がいた部屋の方から、聞こえてくるらしかった。


喜び騒ぐ、ねずみの笑い声にも聞こえた。


それから、やや低い、あんまり、ぱっとしない声。その声は、こう言っているように聞こえた。


…ぶたないで、ぶたないで、ぶたないで…・・


「ゆき」の声らしかった。凄まじく淋しく、悲しい声だった。


調査役は、その悲しい声を背中に聞き、自分を痛めつけた男たちの敵意にあふれた冷たい視線を感じながら、その店から出た。


外には、雪が本降りになっていた。


調査役は階段を降りる頃から早足になり、地面に足がついて駆け足になった。


そして、一目散にそこから逃げていった。


雪にまみれた夜風が顔に当たり、耳を冷たく切り刻むようだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

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