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ご病気の調査役  作者: 新庄知慧
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千里の道も七里から

20



新宿ゴールデン横丁のスタンド居酒屋へ行き、何かさかんに議論し、安酒を飲んで騒いだ。


かなり長い時間ねばり、かなり酔ったと思う。


店を出て、帰る方向はみな、ばらばらだった。


当時、荻窪の借上げ住居に一人で住んでいた調査役は、西武新宿駅へと千鳥足で歩いていった。


12月末のこと、かなり寒かった。雪も少し降っていた。街には人があふれ、ゆったり洪水のように流れていた。


調査役は、年末の街の風景の中を、酩酊状態のまま泳ぐようにして歩いた。


そして、いつの間にか、歌舞伎町の中に迷い込んだ。


景気に浮かれたように、色とりどりのネオンサインが光り、点滅していた。人も、ますます大勢歩いている。


その人ごみと、光の洪水にまみれた不夜城を見物しながら、調査役は歩いた。


種々の風俗営業店の客引きが調査役に声をかけた。


キャバクラとか、ピンクサロンとか、ファッションヘルスとか。街には、のぞき部屋という看板が目についた。


ピーピング・ショーという看板もあった。のぞきショー。


今はもう絶滅した業態だろうが、そのころはそこら中に、のぞきの店があった。


あとで聞いたことだが、「のぞき部屋」と称していても、その内実は暴力バーで、中に入るとひどい目にあう、という代物が多かったようだ。


さて、とんだところに迷いこんだものだと思いつつ、調査役は不思議の国に迷い込んだアリスみたいな気分にもなり、それなりに面白くて、きょろきょろしながら歩いた。


「はい!お兄さん。いかがですか、今日は、お遊びの方は!」


威勢の良い客引きが調査役に営業してきた。


「あ。いや、ちょっと今日は…」とか言いながら、またの機会にします、などといいながら、調査役は客引きをかわした。すると、また別の客引きがすぐに現れた。


「ボーナスでて、ふところ暖かい今夜でしょう。いかがですか、こちらです、最新のピーピングルームです」


しかし、さしてしつこい客引きはいなかった。適当にあしらうと、客引きはまた別の客に向かっていった。


それほどに大勢の人が歩いており、営業をする相手には、こと欠かなかった。


そして、調査役はコマ劇場近くの曲がり角にきた。


男の声が、背後から調査役に挨拶した。


「こんにちは・・・?」


思わず調査役は振り向いた。知り合いのような口調。いままでの客引きの言い方とは、一風変わっていた。


「こんにちは、じゃなかった。こんばんわ、かあ」


背の高い男が立って、にやにや笑っていた。黒い革ジャン。ズボンも黒いレザーで、髪はオールバックにしていた。


暴走族の斬り込み隊長か、暴力団の鉄砲玉のやくざを思わせた。


しかし、そうした風貌とはうらはらに、学生みたいなフランクな調子で言った。


「どこから来ましたか?」


「どこからって…」調査役は、酔いのせいで視力の下がった目で、この黒い革ジャンの男をやっと見ながら言った。「そこだよ…」


「どこへ、行くんですか」


「どこへって…」調査役は首をふった。「家へ帰るのさ」


「こちらへ、どうぞ」男は言って、調査役の手をつかんだ。


「おい、何するんだ」調査役は困惑した。


男は、それこそ、ふわり、という感じで調査役の手を握ったのだが、いったん握ったら、絶対に離さなかった。


大男で、しかも筋肉質の男らしかった。手の力はものすごく強い。


「どこへ行くんだ」調査役は叫んだ。


「すぐ近くです」男は、ぐいぐいと調査役の手をもって引っ張っていく。


「やめろ!」


叫ぶのだが、調査役よりも、はるかにこの男の力は強かった。


引っ張っても、引っ張っても、手を離すことができなかった。恐怖を感じ、狼狽した。


男は言った。「そこ、すぐそこですよ」


コマ劇場の斜め向かいにある裏路地に、男は調査役を引き摺りこんだ。


その裏路地には、小さな飲み屋、バーのたぐいがひしめきあい、表通りよりは少し落ち着いているものの、やはり歌舞伎町ならではの猥雑さにあふれていた。


「ささ、この上です」男はその猥雑な横丁にふさわしい、いかがわしげな声を出した。


男が指差す階段の上には、銀紙で装飾された、黄色と水色に光るネオンの看板があった。


セブンマイル、という字が見えた。


調査役が見上げた瞬間、その文字たちが、ぎらり、と光り、目に焼きついた。


それで、10年たった今でも、「セブンマイル」という名を覚えていたのに違いない。


「ここは何だ…」調査役は大きな声で言った。すると男は語気鋭く、言った。


「うるせえな!いいかげんにしな!」


今までの言い方とは全く迫力が違った。


「あがるんだよ。金、あるだろ」そう言いながら、ものすごい力で調査役を引っ張った。


調査役は、へとへとだった。アルコールと恐怖と狼狽によって、精神がかきまわされていた。


「な、いい店だからさ、いい子ばっかりだぜ」男は少し声色を変えて、なだめるように調査役に向かって言った。


もう、調査役はどうでもよくなった。理性と考慮の糸が切れた。


「手を離してくれよ。手が汗で、べとべとしてきたぜ。自分で歩くから、もういいよ」


男の手をぐい、と引いて、階段を上り、男より上段に進んだ。ネオンの看板が目に近づいた。


調査役は、そのドアを開けた。


・・・・つづく




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