幸福と不幸のバランスシート
女の声だった。電車の中で、こうした声は、たまにではあるが、一定の確率で聞くことができた。
普通は、これで、終わりだった。
まわりの誰が犯人かわからないが、痴漢はまったく無口になってしまい、反応しないのが常だった。
しかし、今回は違った。
「痴漢とはなんだ!痴漢じゃないぞ!」
若い男の声だった。元気よく応酬していた。
「なにさ、しらばっくれないでよ」
女も、負けてはいなかった。
しかし、あまり魅力ある声とは言えなかった。年かさな女のガラガラ声。失礼な感想をもった。
しかし、声色で、その人の年齢まで聞こえてしまうもの。それが現実なのだ。
「なにさ、とは何だ。誰がてめえみたいなババアに痴漢するもんかよ。ふざけんな!」
男の声は若かった。元気がいい。
窓ガラスによって潰された、平べったい肉まんみたいな顔をしながら、調査役は背中にその声を聞き、感心した。
「この!…」
女が叫んだ。
女は、何か振り回そうとしているようだ。
振り回して若い男にぶつけようとしている、そんな気配がした。
しかし、それは無理というものだろう。この、人間がすし詰めの電車空間では。
「痛い!」別の男の声がした。
興奮した女の振りまわすものが、誰か別の人にあたったのだろう。
「そんなに興奮するなよ」ひやかすような声が、少し離れたところから聞こえた。
「何さ!」また、女のガラガラ声。
調査役は、背後にこんな騒動を聞きながら、青空を見つづけた。
自分は、不幸なのだろうか。
調査役は思った。いや、けっして、不幸ではない。
今は一人になってしまったが、あの妻は、悪い人ではなかった。
調査役は思った。
彼は確かに今はひとりものだった。妻に逃げられたのだ。
仕事に忙しく、本当に忙しく、徹夜も幾晩か続き、家に不在がちで、そんな日々を送っていたある日、妻が家出した。
逃げた女房にゃ、しかし、未練は大いにあった。
だからさびしかった。しかしよくわからなかった。疲れきっていて、悲しみなど感じる神経も死んでいたのだ。
青空が目にしみる。
擦り切れた感情で、弱った頭で、むしろ調査役は、こんな風に考えた・・・
妻に逃げられた。しかし、不幸ではない。
こんな境遇になったのは、仕事のせいもあるけれど、きっと、自分は、今までに十分に幸福だったのだ。
だから幸福と不幸のバランスシートの調整のため、妻の家出という不幸に遭遇したのだ・・・
・・・つづく