地下鉄の中の恐怖と地獄。地下鉄は飛ばない。
16
調査役は鞄から仕事の書類を出して素早く読んだ。
一通り読み終え、書類から顔を上げた刹那、また肩に鋭い痛みが走った。
悲鳴をあげそうになる。調査役は肩に手をやって、気分を落ち着けた。
頭の中に、濁った泥水が流れたように感じ、目を閉じた。
地下鉄の車輪がレールの上を滑走する音が、いやに凄まじく、調査役の耳に響いた。
頭の泥水の底のほうで、人の話し声がした。
眉を八の字にして、口をへの字にまげ、調査役は話し声をふりはらおうとした。
電車が不機嫌そうに揺れた。レールは緩やかにカーブしていた。車体が少し斜めになり、それにつれて自分の体も斜めにひしゃげる感じがした。
まだ話し声が聞こえる。調査役は目を開けた。
向かいの若いビジネスマンが携帯電話に向かって話しかけていた。さかんに口を動かし、携帯電話をにぎりしめて強く耳にあてていた。
「…ですから、だめだというんです」
その男の声は地の底から聞こえるような低いバリトンだった。さっきから聞こえていたのは、この男の話し声だったのだ。
そしてその男は、電話と熱心に話しているのだが、その目は死んだ魚のように生気がなく、電車の床を虚ろに見つめたまま動かなかった。喋る口と、その口のある同じ顔についた目が、まるで別の生き物みたいだった。
「だめなんです。無理なんです」
その若い男は、営業社員で、営業の結果を必死に報告しているところに見えた。
調査役はうなだれた。電車の中では、携帯電話の電源は切っておくほうがいい。まわりの乗客に迷惑だ、という車内のアナウンスを思い出した。
「だめだといったらだめなんだ!今、電車の中です。まわりに迷惑だから、またあとで、かけますよ」
若い男は語気を強めていた。渋いバリトンの声が裏返りそうになっていた。電話の向こうには、よほどしつこい上司がいるのだろう。
「・・・だから、何度言ったらわかるんです。何度行ってもだめなんですよ」
若い男は半泣きになっていた。
かわいそうに、と調査役は思った。不況のせいか。
仕事に振り回されてつぶされそうになっている若者だ。
しかし、ヒステリックに大きな声だ。まわりに迷惑なことに違いはない。
電車の中の乗客には、怪訝な顔でこの携帯電話の男を見ているものもあった。
しかし大半の客は、関心もないという様子で、新聞を読んだり、車窓の外の黒い壁を見ていたり、さっきの調査役のように目を
閉じていたり、仕事のことで頭一杯という風に考えこんだりしていた。調査役も他人の顔に戻り、再び書類に目を通そうとした。
そのとき、若い男は、ついに爆発した。
「うるさいですねえ…」彼は恐ろしい顔になった ドスのきいた声だった。調査役は驚いて顔をあげた。若い男はどなった。
「だめだといったら、だめだ。もう手遅れなんだ!よく聞けよ。もう手遅れだ。陰謀は仕上げの段階だ。もうすぐ、爆撃が始まるんだ。努力しても遅い!」
若い男の目は、死んだ魚の目から、憤怒の炎に包まれた獣の目に変わっていた。
しかも、真っ黒い炎の目だった。
「家もビルも道路も電信柱も、街の全部が焼かれてしまう。陰謀なんだ。計画的な陰謀だ。
そこへ向かって、もう歯止めがきかないんだ。破壊されるんだ。
破滅だ。殺戮だ。劫火につつまれて、泣き叫ぶんだ!!」
・・・・つづく




