地下鉄は捏造書類の暗い穴
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女医の笑い声は、しかし、幻聴だったろう。
笑い声が聞こえるには、女医と調査役の距離は、あまりに遠かった。
いったい、何を運んでいるのだろう。
あの、女医の四角い大きなトランクの中には、いったい、何が入っているのだろう。
見上げると、青空が目にしみた。その病院のビルの上から、どこか知らない国へ飛んでいけそうだった。
調査役は、背後に自分の名を呼ぶ声を聞いた。振り向くと、あの体操教師が立っていた。
「何してるんですか。危ないですよ」
「ここの向こう、いきなり、空になってますね。驚きました。もうちょっとのところで、転落しそうになった」
「鍵はかかってなかったですか」
「かかってないから、こんなに青空がよく見えるんです」調査役は、青空を手で指し示した。
「ビル管理の人に注意しなくちゃ。とにかくドア、閉めましょう」
調査役はドアを閉めた。そして彼女に言った。
「急に見えなくなりましたね、どこへ行ってたんですか」
「診断指導書をとりに行ってたんですよ」
「診断指導書?」
「そう申し上げて、この部屋を出てったんですよ」
「そんなこと、僕に言いましたっけ…?」
「言いましたよ。でも、運動に夢中になってらしたから…」
「運動に夢中になってた?この僕が?」
「ええ。だから、聞こえなかったのかもしれませんね。
…・はい、どうぞ。診断指導書です。健康のためのアドバイス満載です。よくお読みになって下さいね」
彼女は調査役に冊子を手渡した。
A4版の加除式のノート。
ぱらぱらとめくってみると、検査結果、診断内容、食事療法、健康体操などの項目が目に入る。
「…・僕は、何の病気なんでしょうか」
「くわしいことは、先生に伺ってほしいんですが高脂血症です。とりあえずは…。くわしいことは、先生に伺ってほしいんですが」
「高脂血症」
「そうですね。でも、まだ他にも可能性を秘めてるんです。その検査結果からすると…」
「そうですか」
「しばらく私どものアドバイスにしたがって生活してもらい、また1か月後におこしいただけませんか」
「はあ…」
調査役はあいまいな肯定の返事をして、そこを去った。
病院を出て、調査役は、街の雑踏へと歩み出した。
携帯電話を出して、会社へと連絡した。
体の異常のために、会社に遅刻するなどということは、この10年で初めてのことだった。
しかし、調査役は、とんでもない罪悪を犯したように感じた。
電話の向こうの上司の声は、きわめて無機質に疲れ切っていた。
「で、いかがなんですか、結果は。たいしたことないですか。そうですか。午後から出られますね。では、お待ちしてますから」
電話の向こうの声は、黄泉の国からの声に思えた
出勤すれば、また、監督官庁相手の、偽造・捏造のたぐいの書類作りが待っている。
調査役の会社は、とっくの昔に倒産していて不思議のない会社だった。
それを国家丸抱えで粉飾し、経営を維持していた。粉飾継続のための、数々の嘘の資料を作成し続けていた。
「何でもいい。SF小説みたいなもんで良いから、あと30分で説明資料を作成して提出してくれ」
「数字をとにかく出してくれ。数字だ。自信も見込みもなくていい。出してさえくれれば、あとは数字に責任をとってくれれば、それでいいんだ」
上司や監督官庁の言葉が、調査役の頭の中で鳴り響いた。
「説明をつけてくれ。どこからも攻撃されないやつ。説明をつけてくれ。解説してくれ。いつも、7通りくらいの解釈が必要だ」
7色の説明作り。昨日は、深夜1時くらいに、こんな注文があったのだった。
「朝一で、代議士先生にレクチャアするんだ。とにかく早くやってくれ」
もう慣れっこだった。調査役の説明資料作りは迅速で素晴らしい嘘に満ちていた。ピアノの達人のようにしてワープロを叩いて書類を量産した。
「早くやってくれれば、それでいい。あとは中身が完璧なら、それでいい」
そうだ。完璧だった。いつも完璧なのだ。真実は何もない文書なのだから。
そうだ仕事だ。仕事はいつも、完璧にでっちあげる必要がある。調査役の頭に仕事が渦巻き始め、足早になった。地下鉄の駅へと急ぐ。
今日は、資金計画のでっちあげだ。手早く、うまい仕掛けを作ってやらなければならない。そして説明もうまくやらなければ。舌先三寸、身振り手振りで、観客をその気にさせなくては。
調査役は、書類捏造家であると同時に、偉大な詐欺役者であることを求められたのだ。シナリオ作家であると同時に、主演俳優であった。
素晴らしい演技をしてやり、真っ赤な嘘を、さらに赤く、真紅で神秘の夕焼け空みたいにしなくてはならなかった。
地下鉄丸の内線の車内は、午前11時ということで、乗車率65%くらいだった。調査役は座席に座ることができた。調査役は腰掛けて、正面を見据えて、仕事の段取りを考えた。
向かいの席には、若い背広姿の男が座っていた。険しい表情だった。何か仕事のことで考えている感じだった。一点を見たまま、眉間にしわをよせていた。
地下鉄の電車は、調査役が耳慣れて、あきあきした騒音をあげながら発車し、真っ黒い都会の穴の中を走った。
・・・・つづく




