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ご病気の調査役  作者: 新庄知慧
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地下鉄は捏造書類の暗い穴

15



女医の笑い声は、しかし、幻聴だったろう。


笑い声が聞こえるには、女医と調査役の距離は、あまりに遠かった。


いったい、何を運んでいるのだろう。


あの、女医の四角い大きなトランクの中には、いったい、何が入っているのだろう。


見上げると、青空が目にしみた。その病院のビルの上から、どこか知らない国へ飛んでいけそうだった。


調査役は、背後に自分の名を呼ぶ声を聞いた。振り向くと、あの体操教師が立っていた。


「何してるんですか。危ないですよ」


「ここの向こう、いきなり、空になってますね。驚きました。もうちょっとのところで、転落しそうになった」


「鍵はかかってなかったですか」


「かかってないから、こんなに青空がよく見えるんです」調査役は、青空を手で指し示した。


「ビル管理の人に注意しなくちゃ。とにかくドア、閉めましょう」


調査役はドアを閉めた。そして彼女に言った。


「急に見えなくなりましたね、どこへ行ってたんですか」


「診断指導書をとりに行ってたんですよ」


「診断指導書?」


「そう申し上げて、この部屋を出てったんですよ」


「そんなこと、僕に言いましたっけ…?」


「言いましたよ。でも、運動に夢中になってらしたから…」


「運動に夢中になってた?この僕が?」


「ええ。だから、聞こえなかったのかもしれませんね。


…・はい、どうぞ。診断指導書です。健康のためのアドバイス満載です。よくお読みになって下さいね」


彼女は調査役に冊子を手渡した。


A4版の加除式のノート。


ぱらぱらとめくってみると、検査結果、診断内容、食事療法、健康体操などの項目が目に入る。


「…・僕は、何の病気なんでしょうか」


「くわしいことは、先生に伺ってほしいんですが高脂血症です。とりあえずは…。くわしいことは、先生に伺ってほしいんですが」


「高脂血症」


「そうですね。でも、まだ他にも可能性を秘めてるんです。その検査結果からすると…」


「そうですか」


「しばらく私どものアドバイスにしたがって生活してもらい、また1か月後におこしいただけませんか」


「はあ…」


調査役はあいまいな肯定の返事をして、そこを去った。


病院を出て、調査役は、街の雑踏へと歩み出した。


携帯電話を出して、会社へと連絡した。


体の異常のために、会社に遅刻するなどということは、この10年で初めてのことだった。


しかし、調査役は、とんでもない罪悪を犯したように感じた。


電話の向こうの上司の声は、きわめて無機質に疲れ切っていた。


「で、いかがなんですか、結果は。たいしたことないですか。そうですか。午後から出られますね。では、お待ちしてますから」


電話の向こうの声は、黄泉の国からの声に思えた


出勤すれば、また、監督官庁相手の、偽造・捏造のたぐいの書類作りが待っている。


調査役の会社は、とっくの昔に倒産していて不思議のない会社だった。


それを国家丸抱えで粉飾し、経営を維持していた。粉飾継続のための、数々の嘘の資料を作成し続けていた。


「何でもいい。SF小説みたいなもんで良いから、あと30分で説明資料を作成して提出してくれ」


「数字をとにかく出してくれ。数字だ。自信も見込みもなくていい。出してさえくれれば、あとは数字に責任をとってくれれば、それでいいんだ」


上司や監督官庁の言葉が、調査役の頭の中で鳴り響いた。


「説明をつけてくれ。どこからも攻撃されないやつ。説明をつけてくれ。解説してくれ。いつも、7通りくらいの解釈が必要だ」


7色の説明作り。昨日は、深夜1時くらいに、こんな注文があったのだった。


「朝一で、代議士先生にレクチャアするんだ。とにかく早くやってくれ」


もう慣れっこだった。調査役の説明資料作りは迅速で素晴らしい嘘に満ちていた。ピアノの達人のようにしてワープロを叩いて書類を量産した。


「早くやってくれれば、それでいい。あとは中身が完璧なら、それでいい」


そうだ。完璧だった。いつも完璧なのだ。真実は何もない文書なのだから。


そうだ仕事だ。仕事はいつも、完璧にでっちあげる必要がある。調査役の頭に仕事が渦巻き始め、足早になった。地下鉄の駅へと急ぐ。


今日は、資金計画のでっちあげだ。手早く、うまい仕掛けを作ってやらなければならない。そして説明もうまくやらなければ。舌先三寸、身振り手振りで、観客をその気にさせなくては。


調査役は、書類捏造家であると同時に、偉大な詐欺役者であることを求められたのだ。シナリオ作家であると同時に、主演俳優であった。


素晴らしい演技をしてやり、真っ赤な嘘を、さらに赤く、真紅で神秘の夕焼け空みたいにしなくてはならなかった。


地下鉄丸の内線の車内は、午前11時ということで、乗車率65%くらいだった。調査役は座席に座ることができた。調査役は腰掛けて、正面を見据えて、仕事の段取りを考えた。


向かいの席には、若い背広姿の男が座っていた。険しい表情だった。何か仕事のことで考えている感じだった。一点を見たまま、眉間にしわをよせていた。


地下鉄の電車は、調査役が耳慣れて、あきあきした騒音をあげながら発車し、真っ黒い都会の穴の中を走った。



・・・・つづく

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