満員電車の窓から見える切り刻まれた青空は
ご病気の調査役
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調査役は、ご病気だった。
体や心のどこがどう悪いのかは、いうことはできなかった。
しかし調査役は、ご病気だった。全体に、ご病気だった。「やまいだれ」をかぶって生きていた。
毎朝、調査役は、東海道線の電車に乗り、横浜から大手町まで通勤していた。毎朝、満員電車だった。人間が、鉄の箱の中に、限界になるまでいっぱいに詰め込まれた電車だった。
調査役は毎朝、その中で押しつぶされ、足を踏まれた。脂くさい吐息、汗くさいため息、ときどき目をあわす険しい目つき、あるいは疲れきって固く閉じられた瞼。
これらによって、まわりをぎゅうぎゅうに囲まれて、体力を著しく消耗させた。擦り減って、消されてしまうような危機感にさいなまれた。それで調査役は、できるだけ電車の窓ぎわに立とうとした。
電車の窓からは、青空が見えるのだ。
晴れた日、建物に切り刻まれて、あわれに狭い青空だったが、とにかくそれは青空だった。
調査役は、近頃、本当に、青空の青が目にしみる、ということを切実に実感した。
限界まで人間が詰め込まれた電車の中、身をよじり、タコ踊りやツイストダンス、バンプステップやときにはクラブ系の投げやりな格好をしながら、懸命に努力し、車内を移動して、なんとか窓際にすべりこみ、人ごみに押されて窓にガラスに顔を押しつけられ、目を開くと、眼球自体が窓ガラスに直接くっついてしまいそうになった。
それでも、晴れた日には青空が見えるのだ。そして、青空を見るのだ。
調査役は、涙がでそうだった。
青空、青空。
この青空は、1年前も青空だったのだ。
10年前も、100年前も、そしておそらく、1000年前も。そんなことを、意味なく考えて、調査役はやっと生命の呼吸をしていた。
病的だった。病気なのだ。これも、調査役を全体に包み込んでいる、「ご病気」のひとつだった…・・。
そして、こんな声が・・・
「ぎゃあ。何すんのよ」
その通勤電車では・・・、いや、どこの通勤電車でも似たようなもんだろうが、ときたま、こんな声が聞こえてきた。
調査役は、窓に顔を激しく押しけられ、鼻と頬が窓ガラスに押しけられて、まったく平面になってしまい、身も心も、ひしゃげた状態で、背後にこんな声を聞いたものだ。
「痴漢!」
・・・・・つづく