レノヴァの結婚事情
青い空はどこまでも広がり、降りそそぐ陽光が肌を焼く、レノヴァの朝。
八時の鐘が鳴るであろう少し前、師匠を起こす少し前になると、アドルは小銭の入った革袋を持ってシェザリューン魔法店を出た。行き先は数軒向こうのパン屋だ。
活気づく白の街並みを、人々と挨拶を交わしながらまぶしげに目を細めて歩く。
「おばさん、おはよう」
パン屋に着いたアドルは、香ばしい匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。この店の女房はそんな彼を見て楽しげに笑う。
「おはよう。シェザ様は元気かい?」
もちろんだと返しつつ、これほど近くに住んでいて様子を窺われるとは、と、師匠のこもりっぷりに、ぐうたらっぷりに、アドルは半ば感心する。
そして、ふと疑問が湧いた。
「俺が来るまで、師匠はどうやって暮らしてたんだ?」
「ずいぶん品のいい使用人がいたこともあるし、お弟子さんがいたときもあったねぇ」
アドルは半分納得し、半分首をかしげる。
品のいい使用人とはシェザリューンの、元同僚シーリスの実家でもある、レノヴァ屈指の商家で働く者だろう。さすがに昔、せっせとぐうたらな次男坊の世話をしていたらしい次期主人ではあるまい。
首をかしげたのは弟子のほうだ。シェザリューンはアドルと同い年だから、独立してそれほどの年月は経っていないと思われる。それから弟子を取ったならまだ修行中のはず。その弟子はどこへ行ってしまったのか。
「出来のいいお弟子さんだったらしくてね。まだ若いのに独り立ちしたんだよ。シェザ様が店を構えたのも若い頃だし、もう弟子も育てきったんだから、優秀なんだねぇ」
女房の言葉は、不出来な弟子の胸をグサリと突き刺した。いや、朗らかに笑う彼女に悪意は微塵もないだろう。情けなく下がっていた太い眉毛を、アドルはがんばって持ち上げる。
「それよりさ、あと一月もしたらレノヴァ祭だろ? あんた、一緒に行く女の子はいるのかい?」
続いた女房の言葉は、結婚適齢期ギリギリの男の胸をザクリと切り裂いた。
レノヴァ祭とは、この都市を発展させた何代も前の、領主様の誕生祭である。
彼は当時、魔法使いや魔力物は貴族や金持ちが独占するものという慣習をくつがえし、これらの恩恵を庶民へ与えることに成功した。
やがてレノヴァを中心とするこの領の繁栄を見た、他領がこれを取り入れ、現在はこの共和国全体に広がっている。
その功績を認められた領主様は、共和国の長である元首も務めた。国を発展させた偉大なる元首と評されており、庶民の間では聖人のように崇められている存在だ。
アドルもすばらしいと思う。レノヴァ市民として感謝を捧げるとともに、誇りにも感じている。だが、今はそこではない。
レノヴァ祭はその領主様の誕生日から三日間。夜になると、街にいくつもある広場は美しい魔光灯で照らされる。楽団が曲を奏で、人々は楽しげに踊る。
家族同士、子供同士、そして恋人同士。このときいい歳をした男が一人というのは、街へ出るとどことなく気まずいというか。かといって、家にいればそこはかとなく寂しいものがあるというか。
海洋交易都市レノヴァは、周辺の都市や町村から商人や出稼ぎ労働者が、港からは水夫が、多くの人が集まる街。つまり男が多い街だ。生涯独身でいる者も少なくない。
そしてアドルはどちらかといえば女性とは縁遠い。元は少年たちの憧れである外勤部隊の小隊長だったのに、なぜか。
レノヴァの少女に将来の夢は、と聞けば、警備隊員さん(外勤部隊)のお嫁さんと返ってくる可能性が高い。では結婚を真剣に考え始めた娘に、外勤部隊の隊員はどうかと聞いてみると曖昧に笑う者が多い。
魔獣との戦いは危険を伴うので、外勤部隊はいつ命を落とすかわからない。半端な歳で未亡人になり、生活のために売れ残っていた中年男と再婚するのは嫌、というわけだ。女性は現実をしっかりと見据えている。
よって、これまでのアドルは女性とは縁遠く、今は自立していない魔法使いの弟子だから、より縁は薄くなったと言える。
「ああ……ほら、まだ祭りまでは間があるし、まあ、今年がダメでも来年があるよ」
アドルの太い眉毛が下がったのを見て、パン屋の女房がぬるく笑いながら励ました。
確か、まったく同じセリフを、まったく同じ表情で、去年別の女房から聞いた記憶がある。アドルの眉毛がさらに下がる。手は自然、傷ついた心を労わろうと分厚い胸板へ。
ここでアドルは「ん?」と首をひねった。女房の言葉を聞いて心痛を覚えた気になり、眉毛も下がりはしたものの、胸に手を当てて落ち着いてみると、なんだかちっとも痛くないし寂しくもないのだ。
不思議に思い、来たるレノヴァ祭を想像してみた。
朝はいつもどおりシェザリューンを起こす。待て、レノヴァ祭の間は魔法屋も休業だ。ゆっくり寝かせてあげたほうがいいだろうか。それとも生活のリズムを崩さないほうがいいだろうか。これは師匠に要確認だ。
起こしたらいつもどおり、いや、せっかくのレノヴァ祭だ。クローゼットにレースや飾りのついたシャツが入っていた。家にこもっているとはいえ、師匠もおしゃれをしなければ。
魔法屋は休み。師匠も魔力物を捌かなくて良いから、午前中は魔法を見てもらったり、魔法語のわからない部分を教えてもらったりしてもいいだろう。
午後はいつものごとく、シェザリューンは昼寝、アドルは家事だ。
夕食は街の賑わいを聞きながら、いつもより豪勢な料理をせっせと師匠に食べさせる。
年に一度のレノヴァ祭、晩餐はやはり魔獣肉が相応しい。外勤部隊もがんばってはいるものの、庶民が頻繁に食べられるほどの供給はないために、予約が必要な、ちょっと贅沢な食材なのだ。
外勤部隊が狩った魔獣は、魔獣屋で取り扱っている。忘れずに予約しておこう。柔らかくて濃厚な味わいの一角牛がいいだろうか。味つけを楽しめるさっぱりとした火炎鳥も捨てがたい。
そして夜。居間の魔光灯は消し、窓から見える街の明かりを眺めながら、アドルは酒をちびちびと飲む。三人がけソファではシェザリューンが目を半開きにして、うとうとしている。
アドルの脳裏を、そんな一日が駆け巡った。
――うん、いいな。
その考えはいかがなものか。
が、アドルの胸中など知るはずもないパン屋の女房は、太い眉毛が上がったのを見て「がんばりな」と笑う。
「ああ」
ニカッと笑い返したアドルはレノヴァ祭の間、どんな豪勢な晩餐にしようかと考えを巡らし、心にはやる気が満ち満ちている。
彼の限りなく薄くなっていた女性との縁が、完全に消えた瞬間だった。
*
中天より少し傾いた太陽がジリジリと照りつけ、それでも窓を開け放った家々に潮の香りが吹きこむ、レノヴァの昼下がり。
シェザリューン魔法店は、師匠は三人がけソファで心地よくまどろみ、弟子は流れる汗を首にかけたタオルで拭いながら、掃除に励んでいる時間だ。
しかし、この日は違った。
店の中央に置かれた楕円形のテーブルにシェザリューンとアドルが着き、向かいには貴族か商家だろうか、身なりの良さそうな娘が座っている。
この魔法屋に来る者は大抵、苦痛に顔を歪めた怪我人、または魔法使いを呼びに来た、必死の形相をしたその知人。魔力物(魔石・魔鉄・魔草)を扱う、たとえば魔道具職人ギルドの頑固親父、鍛冶師ギルドのガタイのいい親方、薬師ギルドの神経質な感じの男。それに嫌そうな顔をした内勤部隊の隊員。
だったりするのだが、個人的な頼みを持ちこむ客もある。
魔法屋に義務づけられているのは、魔力物を捌くことと怪我人の治療、および警備隊の要請に従うことだ。ギルドや個人客を相手にする魔法屋は少ないために、すべてを引き受けているこの店には意外と客が来る。
シェザリューンはぐうたらだが、仕事をする気はあるのだろう。午前中で魔力物を捌いてしまうので、いくら昼寝好きとはいえ、ちょっと暇なのかもしれないが。
「……」
「……」
店には奇妙な沈黙が流れていた。この娘、やって来たはいいが「お願いがありまして……」以降、何も話さないのだ。口を開いてはうつむき、顔を上げては口をつぐむ、を繰り返している。
アドルはその間にも、娘の目がチラチラとシェザリューンに向くのが気になり、なんだろうと横を見た。
いけない。先ほどまでぱっちりと開いていた目が、今は半開きになっている。あまりにも娘がしゃべらないので眠くなったのだろう。これ以上沈黙が続けば間違いなく、寝る。
もしかすると娘は、こんな寝ボケた魔法使いで大丈夫かしら、とでも思っているのではないか。いや違う、師匠はぐうたらだが魔法の腕は一流なのだ。
アドルはシェザリューンの名誉を守るため、拳にグッと力を入れる。
「お嬢さん、魔法使いは忙しい。このとおり師匠も疲れてる。早く言ってほしいんだが」
魔法使いが多忙なのは本当だが、シェザリューンは忙しくない。けれど半開きの目は、見ようによってはお疲れ気味ともとれるはず。
魔力が多いことの代償で体が弱いから、疲れて眠くなるのか。それとも代償そのもので眠くなるのか。アドルにはわからないが、いつもなら師匠は寝ている時間だ。ここは早々に娘の口を割らせて、昼寝をしてもらわなければ。
使命感に燃えるアドルは、犯人を取り調べる内勤部隊の隊員のように、太い眉毛を寄せてズイッと娘に迫った。迫力顔に怯えたのだろう、娘の頬がひくりと引きつる。
魔獣を相手にしていた元外勤部隊の小隊長は、残念ながら妙齢の女性の扱い方などまるで知らなかった。
「じ、実は……」
かつては魔獣をも相手取った男に、身の危険を感じたのか。せっかく魔法屋に来たのに、肝心の魔法使いのまぶたがくっつきそうなことに焦りを覚えたのか。娘は詰まりながらも声を出す。
すると、シェザリューンの目がパチッと開いた。案外自在に制御できる眠気のようだ。やはり昼寝はただの趣味だろうか。アドルは首をひねったものの、まずは話を聞こうと娘を見る。
「あの、禁薬という物があると伺ったのですが……私、肌を白くしたいんです」
途中、アドルの口から溜息がもれると、娘の声がしおしおと萎んだ。
禁薬とは、特別な魔草で作られた魔法薬に、魔法使いがさらに暗黒魔法をかけた禁断の秘薬。さまざまな願いが叶う代わりに大きな代償を払わなければならない、とも言われている。
若返る、美しくなれる、強い肉体を得られる、才能でさえ得られる、死人ですら生き返らせることができる、などなど。その代わり魂は死後、悪魔の手に堕ちるそうだ。
うさん臭い、とてつもなくうさん臭い。それに暗黒魔法ってなんだ、とアドルは言いたい。魔力が発現して一年、いくつもの魔法屋を転々としたが、そんな薬は見たこともないし、そんな魔法も聞いたことがない。
禁薬とはつまり、人々の欲が生み出した幻想なのだろう。
アドルは「肌を白くしたい」と言った娘に、少し呆れた目を向けた。
娘は十六、七といったところ。庶民の娘ならこれから相手を見つけようという歳だが、貴族や大きな商家の娘ならもう結婚しているか、許婚がいても良い頃だろう。
これがまだ決まらずに焦っているのか。街が浮き立ち、新たな恋人たちが生まれやすくもあるレノヴァ祭も近づいている。だから美しくなりたいと願い、怪しげな噂に縋ろうとするのか。
太陽降りそそぐレノヴァでは、女は色白のほうが美しいとされている。外で働かなくとも良い、上流階級のご婦人への憧れだろう。
アドルも白い肌は美しいと感じる。が、小麦色の肌だって健康的でいいじゃないか、とも思う。どちらが好きかと聞かれれば、白、と答えるが。それより今、一番関心があるのはぐうたらな師匠の世話だが。
「お嬢さん、禁薬なんて幻想だ。肌を白くする薬なんてない」
こんな相談は、魔法使いがどうにかできるものじゃない。化粧品屋で白粉を買ったほうが早いのではないか。それに師匠は昼寝の時間だ。
アドルが渋い顔で首をふると、娘はうつむけていた頭をハッと上げ、ついでシェザリューンを見た。
「で、ですが……」
娘は言いにくそうに口ごもる。
もしかして。アドルは太い眉毛をギュゥッと寄せた。
彼女は、師匠の白い肌が禁薬によるものだとでも思っているのか。先ほどチラチラと師匠に目を向けていたのも、寝ボケた魔法使いに不安を感じたのではなく、白い肌が羨ましかったからか。
生まれつきでもあるだろうし、師匠は筋金入りのぐうたらだから陽にも当たらず白いだけだ。バカバカしい、とアドルの口からまた溜息が出る。
レノヴァ祭を女性と過ごすより、師匠の世話に心躍らせる魔法使いの弟子に、乙女心を理解する能力は微塵もない。
その、真っ白なシェザリューンはというと、ちょっぴり唇が尖っていた。アドルと同じように考えているのか。娘の視線の意味を察して気を悪くしたのか。
男の場合、色白ならやはり上流階級だろうし、小麦色の肌は働き者と言われ、どちらも悪くない。だが、それを女性に羨ましがられても、ちっとも嬉しくないだろう。
そんなシェザリューンに気づいたアドルは、ふと思う。もし師匠の肌が小麦色だったら。
彼は三人がけソファに寝そべる『小麦色の師匠』を、どうしても想像することができなかった。
娘と向き合うことしばし。アドルはものすごく渋い顔になっていた。禁薬などないと何度繰り返しても、彼女は「金ならある」「何でもする」と言って引き下がらないのだ。
妙に静かな師匠も気になり、そっと横を窺う。大丈夫だ、目はぱっちりと開いている。寝てしまっていたらどうしようと、心配だったアドルは安堵の息をついた。
ここでシェザリューンの唇が、ようやく動く。
「本当に禁薬が欲しいんですか?」
パッと瞳を輝かせた娘。ギョッと目を見開いたアドル。まさか禁薬などという物が、本当にあるのか。
シェザリューンはゆっくりと、同じセリフを繰り返した。いつもは少し幼く優しげな顔が、やけに大人びて冷たく感じられる。
こんな師匠は初めて見た。アドルののどがゴクリと鳴る。娘も今までとは様子の違う魔法使いに恐れをなしたのか。一度顔を伏せ、それでも大きくうなずく。
それを見たシェザリューンは音もなく立ち上がる。やるべき事に取り組むときの『スタスタ』でも、仕方なく動くときの『のたのた』でもなく、しずしずと居間へ向かった。
戻ってきたシェザリューンの手に、ガラスの小瓶が握られていた。中には金色にも見える液体と、刻んだ魔草だろうか、何かが入っている。
これが禁薬なのか。アドルののどはまた、ゴクリと鳴る。しかし首をひねりもした。ちっとも魔力を感じないのだ。感じるのは苦手なアドルだ。だからわからないだけなのか。
それに。
「これが禁薬です」
テーブルに小瓶がコトリと置かれると、中の液体が揺れてキラリと輝いた。アドルには、それが妙に見覚えのある物のように思えるのだ。
「これを飲めば肌が白くなるんですか!?」
「はい。最初は肌が、次に髪が白くなります」
「え?」
どこで見たのだったか。アドルは師匠と娘のやり取りを聞き流しつつ、ぐっと小瓶に顔を寄せる。
「そのうち髪は抜けて薄くなり、肌にはしわが浮き、歯は黄ばんで抜け落ちます」
「そ……そのうちって」
金色の液体に浮いた、黒胡椒にも似た粒。沈んでいるのは元は白い、刻んだ玉ネギのようにも見える。アドルはさらに小瓶に食い入る。
「そう時間はかかりません。そして短い生を終え、魂は死後、悪魔の手の中で永劫の苦しみに悶える。天国に行くことも叶わず、親しい者との再会も果たせない」
「そ、そんな……」
禁薬の恐ろしい代償を知った娘の、唇が震えた。
そんな彼女を、シェザリューンの瞳が静かに射抜く。そしてアドルは、小瓶を見つめていた目をカッと見開く。
「それが――禁薬というものです」
これは――アドル特製ドレッシング!
オリーブオイルに香辛料や香味野菜を入れた物で、野菜にかけてもパンを浸してもおいしい、アドルご自慢の一品である。
「それでもあなたは禁薬を飲みますか?」
「……い、いえ」
シェザリューンにジッと見つめられた娘は、顔色も失せ、弱々しく首をふった。
肩を落とした娘を見送りながら、アドルは感心した風な息をもらしていた。
禁薬などないと言い張って、娘を強引に追い返すことはできただろう。だが、その場合彼女はどうするか。他の魔法屋へ行く。そこでも断られ、行き着く先は呪術師や魔女と呼ばれている者の下だ。
彼らの多くは魔力を持たない、魔法使いとは名乗れない怪しげな者たち。禁薬と偽って法外な金を取る以外は害のない者もいるが、下手にしゃべられないようにと毒を売りつけ、客の口を塞ごうとする性質の悪い輩もいる。
禁薬が恐ろしい物と知った娘は、こうした薬に引っかかったりはしないはず。師匠はそこまでを考え、アドル特製ドレッシングまで持ちだして芝居じみた真似をしたのだろう。案外演技もうまかった。
頬をゆるめたアドルは、椅子に座ったままの師匠に目を向ける。
いけない。もう寝ていた。
アドルはシェザリューンを抱え上げて居間へと向かう。ドレッシングも減っている。今日はこれからドレッシング作りだと、アドルは気合を入れていた。