師弟の穏やかな日常
燦々と降りそそぐ陽に照らされた、きらめく青の海。港を行きかう帆船の純白に輝く帆。びっしりと並ぶ建物のまぶしいほどに白い壁。
青に面した白の街。海洋交易都市レノヴァのこれまた白い石畳を、逞しい男が荷車を引いて歩いていく。
男――アドルは戸口に『シェザリューン魔法店』という看板がある、建物の前で立ち止まった。日に焼けた顔に浮かぶ汗を、腰のタオルを引き抜いて拭きながら二階の一室を仰ぎ見る。
「……師匠はまだ寝てるのか」
いけません、という風なすっぱい顔になったアドルは、荷車を隣の倉庫に押しこむと、すぐさま二階へ駆け上がった。
アドルはシェザリューン魔法店で働く、いわゆる『魔法使いの弟子』だが、それにしては少々歳を食っている。現在、結婚適齢期ギリギリの二十七歳。この街レノヴァなら十六にもなれば大人として扱われるし、魔法使いでも職人でも十五より前には弟子入りし、二十七ならもう一人前になっている。
しかしアドルは未だ弟子。これには実に単純な訳があった。彼の身に眠っていた魔力が一年前、二十六歳のときに発現したからだ。それまでは魔力があるなんて知らなかったのだから、弟子入りしようもない。
では、これまでアドルは何をしていたのか。街を守るレノヴァ警備隊の小隊長だった。
ではなぜ、わざわざ警備隊を辞めて魔法使いに弟子入りしたのか。
街の外には魔石・魔鉄・魔草と呼ばれる魔力を含んだ物があり、魔力を持った魔獣もいる。
魔石に魔法を込めれば、誰でもその魔法を利用することができる。魔鉄や魔草に魔法をかけると、より良い武器や薬の原材料になる。魔獣の肉はおいしく毛皮は上等。その魔獣を倒すには、魔法や魔鉄製の武器がいる。
つまり魔力ある良質なものを扱うには魔法が必要で、しかし魔法使いは少ない。
よってこの国には、『魔力を持つ者は魔法使いになり、人々のために貢献すること』という法があるのだ。
二十六歳にもなって突如現れた魔力。警備隊員から魔法使いという、まったく畑違いな仕事への強制転職。加えてアドルは、魔力を感じるのが苦手だった。
それでも魔力持ちが魔法使いになるのは義務。ときおり警備隊を辞めたときの、「今年はお前を中隊長に昇格させる予定だったんだがな」という元上官の言葉を思いだしては嘆息しつつ、がんばるしかないから、がんばった。しかし。
この一年で何人もの魔法使いがさじを投げ、アドルはいくつもの魔法屋を転々とした。
魔法使いになれなければ、それ以前に魔法屋に置いてもらえなければ、金を稼げず食いっぱぐれてしまう。ささやかな貯金が着々と減っていくのを見ながら、路上で寝起きする未来の自分を思い浮かべながら、太い眉毛を思いっきり下げる日々。
そんな彼を拾ってくれたのがこの魔法屋の店主、魔法使いシェザリューンだ。アドルは師匠に多大なる恩義を感じている。
ちなみにシェザリューンも二十七歳の青年。同い年の師匠と弟子というわけだ。
「師匠、もう八時の鐘が鳴ったぞ。起きてくれ」
人々の多くは朝六時の鐘とともに活動する。もう十分寝坊だ。アドルは薄暗い部屋に入ると、窓を開けて陽を入れた。
「ん……」
まぶしかったらしい。シェザリューンの眉が寄り、日光を浴びたことがないんじゃないかというくらい、真っ白な顔はもぞもぞ布団に潜りこんでしまう。
しかしアドルは布団をはぎ、彼から見ればずいぶん細い体を抱え上げた。鏡の前に置かれた椅子まで運ぶと、手前のタライに水をそそぐ。シェザリューンのまぶたは未だ閉じたまま。ゆらゆら揺れる体を支えながら、長い髪を丁寧に結んでやる。
「師匠、顔を洗ってくれ」
「んー」
ようやく目をこじ開けたシェザリューンが、ちゃぷりちゃぷりと洗いだした。これを見たアドルは満足げにうなずき、次はクローゼットを開ける。
似た感じの白いシャツと、まったく同じに見える黒のズボンが並ぶ――シェザリューン曰く、選ぶのが面倒なので同じような服をそろえている。この中からたいした違いはないだろうに、今日の師匠の服はどれがいいだろうか、と、かなり真剣に吟味する。
アドルがふり返ると、シェザリューンは洗い終えてもまだ半開きの目で、濡れた顔もそのままにポタポタと水を滴らせていた。これもアドルが拭き、また抱え上げてベッドに移す。今度は着替えを手伝い始め……。
この師匠、これでもかというほどに『ぐうたら』なのだ。アドルもどうかと思いはするものの、魔法の腕は確かなようだし拾ってくれた恩もある。なにより。
「ありがとう、アドル」
まだボンヤリとした顔で、ぽやぽや笑うシェザリューン。アドルの頬もたるんとゆるんだ。
この一年、何人もいた師匠に「出来が悪い」とドヤされ続け、悲しいかな、感謝の言葉などとんと無縁だったせいなのか。
アドルは役に立てたと思えば嬉しく、ついつい世話を焼いてしまう。元々面倒見も良いのだろう。これにより、なおさらシェザリューンのぐうたらっぷりが加速していることには気づいていない。
それに。
――魔力の多い人には代償があるんだ。
こう言ったときのシェザリューンは、ほっそりとした手を擦りながら、少しふて腐れたような顔をしていた。
彼の魔力は多いらしい。ならば代償とやらもあるのだろう。その代償とは、体が弱い、ではないか。だからこれほどまでに『ぐうたら』なのでは。
そう考えれば元はレノヴァを守る警備隊員、弱きものを庇護しようという熱血漢の血が騒ぐ。アドルはいっそう甲斐甲斐しく、師匠の世話にも熱が入る。
魔法使いとしては一流だが、ぐうたらすぎるシェザリューン。魔法使いの弟子としては不出来だが、母か嫁としてなら十分以上の役割を果たしているアドル。
二人はものすごく相性の良い師弟、と言っていいだろう。
*
アドルがパンを切り、アドルがスープを盛り、さすがにスプーンはシェザリューンが自分で持って、二人は世間的には遅い朝食に取りかかった。
このときのシェザリューンは、意外にもスッと背筋が伸びている。もぐもぐと口もしっかり動かしている。
彼は一見ぐうたらなようだが、『自分のやるべき事』に対してはダラダラしたりしないのだ。ただ、そうと判断する事柄が他者よりずっと少ないらしく、だから滅多に動かない。
朝食をとるという行為を『やるべき事』と判断した師匠に、弟子は満足げな目を向けつつ、分厚く切ったパンと溢れんばかりに盛ったスープを勢いよく減らしていく。
アドルはシェザリューンの、およそ三倍の量を食べる。
魔法はからっきしなクセに食費のかかる弟子。これもかつての師匠たちが彼を追いだした一因だろう。いや、魔法屋は儲かるのでアドルくらいは養える。おそらく出来の悪い大食漢にムカついたのではないか。一因とまでは言えなくとも、遠因ではあっただろう。
だが、シェザリューンは一切文句を言ったことがない。すばらしい師匠だと、アドルは腹の満腹感に比例して、心にも感謝の念が広がっていく。
朝食を終えてアドルが皿を洗うと、ようやく仕事だ。倉庫の荷車に積んでいたカゴを、やはりアドルが運んでくる。この間シェザリューンは定位置である、三人がけソファの真ん中に陣取り一歩も動かない。
「今日は魔草の日か」
のぞき見たシェザリューンは一本取って手をかざし、それを空のカゴに入れた。
黒ずんでいた魔草は鮮やかな緑に変わっている。つやつやと輝き、生き生きとして見える。魔力も先ほどより強く感じられる。
魔石・魔鉄・魔草、これらの魔力物は警備隊が確保し、決められた日に魔法屋に持ちこまれる。
アドルが今朝、荷車を引いていたのは今日が魔草の配給日だったからだ。本来は警備隊が魔法屋に運んでくれるのだが、かつての同僚に申し訳ない気がして、そして師匠もまだ寝ていて暇だから、自ら取りに行くことにしている。
魔力物はまず、それぞれに土魔法・火魔法・水魔法をかけて含まれている魔力を呼び起こす。それから魔石なら指定された魔法を込め、魔道具職人ギルドや警備隊へ売る。これを魔道具に組みこんだり、魔獣を倒すための魔石弾として用いたり、といった具合に使う。魔鉄と魔草はそのまま鍛冶師ギルドや薬師ギルドへ。
このように魔法使いが魔石・魔鉄・魔草を使えるようにし、職人が魔道具・魔鉄製品・魔法薬を作る、という分業制になっている。
海洋交易都市レノヴァは、周辺の都市や町村から商人や出稼ぎ労働者が、港からは水夫が、多くの人が集まる街。重宝される魔法使いなら故郷を出る必要もないので、この街は人口に比べて魔法使いが少ない。だから分業しないと品が間に合わないのだ。
よって魔法使いは忙しい、はずなのだが。
「ん~、ふっふー、ん~」
なにやら調子の外れた鼻歌を歌いながら、シェザリューンはすばらしい速さでポイポイ魔草を捌いていた。
魔力を呼び起こすには、ただ魔法をかければ良いというわけではない。含まれている魔力を感じ、送る魔力の場所や量を調整しなければならない。これを間違うと、最悪ただの草や石ころになってしまう。
アドルはこの一年で何人もの魔法使いを見てきた。けれどこれほど手早く、しかもつやの良い、つまり出来の良い魔力物を見たのはシェザリューンが初めてだ。いつもながら師匠の魔法の腕には感心する。
そして肝心の、彼の腕はというと。
片手に魔草を握りしめ、まずは魔力で呪文をつづる。魔草には水魔法だ。慣れていないアドルは指を動かしたほうがやりやすい。集中しすぎているせいか、太い指はぶるぶる震えている。警備隊員として魔獣と対峙していたときより、迫力顔にもなっている。
ミミズののたくったような呪文ができると、それは魔力の塊に変わった。まだ加減などわからないアドルは、とりあえずこの魔力を魔草へ送る。
「ぁ、それ……」
――ボゥッ
「おおぅ!?」
握る魔草がメラメラ燃えた。水魔法の予定だったのに火魔法が発動し、魔草はただの草どころか灰と化した。
おそらく呪文がミミズだったために、『水』という魔法語ではわずか一文字が『火』になってしまったのだろう。
師匠に楽しげに笑われ、それなりに慰められもし、まだ魔草を相手取るのは早いと判断した弟子は、これまでどおり庭で練習することにした。
使うのは水の攻撃魔法、相手は木の板。これなら間違えて火を放っても板が燃えるだけだし、万が一に備えてバケツに水も汲んである。
一人もくもくと練習するアドル。しかしその顔に落胆の色はない。それどころか、むしろ楽しげでもある。実は彼、魔法を使えるようになったのはつい最近、この魔法屋に来てからのことなのだ。
やる気満々な弟子は、迫力顔になりながら震える指で呪文をつづり、魔力の塊を出現させる。開け放たれた窓からのぞく師匠の、その口がまた『あ』の形になったような。
――ボゥッ
「おおぅ!?」
木の板が燃えている。バケツを持って走るアドル。相変わらずのようだが、一歩一歩チミチミと進歩はしている、はずだ。
街に昼の鐘が鳴りわたると、アドルはいそいそ家へ戻った。放っておくと師匠は昼食をとらない。それに弟子の腹もけたたましく鳴っている。
朝と同じくアドルが支度を整え、昼食はいらないとのたまうシェザリューンをアドルが運び、二人して食卓に着いた。
残念ながら昼食を『自分のやるべき事』とは考えていない師匠に、彼はせっせと食べさせる。このときのシェザリューンは背もくたりとしていて咀嚼ものろい。それでいて、おいしければ幸せそうに笑うのが、世話好きな弟子の心をくすぐる。
午後は魔法屋の戸口にあるプレートをひっくり返して『開店』にする。
この街の魔法屋では魔道具も、魔鉄製品も、魔法薬も作らない。では何を売るのかというと、魔石に込められない魔法を売る。
たとえば治療魔法。怪我人が治療にやって来るということだ。治療魔法は怪我の状態に合わせて使う。直接患者を見なければならないので、魔石に込めて売ることはできない。
他には警備隊の要請で犯人に精神魔法――自白のためだ、をかけたりもする。こちらも相手と向き合う必要がある。
あとは魔力物を使うギルドから、依頼を受けたりもしている。
魔法使いの多くは時間を決めて店を開け、この間も魔力物を忙しく捌く。けれどシェザリューンは本日の分量を午前中で終えている。
そんな彼の午後の過ごし方は、怪我人が来れば治療したり、昼寝をしたり、新たな魔道具の設計図を元に呪文を組んだり、昼寝をしたり、魔鉄製品や魔法薬の魔力品質を確認したり、たまに読書をしたり、となっている。
シェザリューンが座る三人がけソファの周りには本や書類、インクに羽ペン、水差しにコップ。とにかく必要な物がそろっていて、生理的な所用を除けば彼はまったく動かない。
ソファの真ん中に座っているのも、体を回転させればそのままコロリと寝られるから。お尻を動かすのも面倒らしい。
アドルはというと、午前中の練習で魔力をほとんど使ってしまうために、午後は掃除に励む。ソファの周りで小山を作っている物もしっかり動かし、きっちり元に戻す。もちろん寝ているシェザリューンも移動させる。
これが終わると警備隊時代の名残だろう、庭で愛用の剣を振り、夕暮れどきには夕食の支度に取りかかる。
そして夕食は、やはり『自分のやるべき事』と認識していない師匠にせっせと食べさせる。残念ながら風呂も同様だ。
「アドル、おやすみ。今日もいろいろありがとう」
散々昼寝をしたクセに、シェザリューンは眠たそうな顔をして、ぽやぽや笑って居間を出ていく。
もしかして眠くなるというのが、魔力が多いことの代償だろうかと首をひねりつつ、アドルは頬をゆるめて挨拶を返す。
「うん……今日もがんばったな」
去っていく師匠の、のたのたとした足音を聞きながら、充実感を覚える今日この頃。それが魔法使いの弟子としての、魔法の上達によるものなのか。シェザリューンの母だか嫁だかの、献身的な世話によるものなのか。
定かではないが、魔力が発現して一年、近頃アドルはようやく笑うようになっていた。