144.礼竜の祠①碑文と二対の竜像
驚く程洞窟内部は静かだった。どちらの方向に耳を向けても何一つとして一切の音という音が排除されているような無音の空間だった。
オレはガンク達より聴覚が優れているという自負がある。ねこだから。でも全く捉えられるものはない静かな世界に少しだけ焦りに似た感情が沸き立つ。
代わりに静かな風の揺らぎを感じることが出来た。暗いこの穴ぐらの奥から水気を乗せて微弱な風がそよいでくる。
それに生物の生体的な感覚は皆無なのに、じんわりと体の内側へと滲むような重い魔力の伝わりが真冬の床の底冷えみたいに足元から拡がっていく、そんな知覚を感じていた。
イルマが捉えて言っていた『神格級のもの』というのはおそらくこのことで間違いないと思う。確かにこれはあの黄金の鳥なんかじゃなく、もっとねっとりした嫌な気配だ。
「随分と暗いな」
「他の空洞と比べてもこの洞窟内部は意味を持って存在しているのだろうな。見てみろ」
魔化コッコーに乗ったままで移動出来る規模はあるけれど、明度はこれまで侵入した砂ぶくれの洞窟とは明らかに異なり暗く視界は不明瞭だ。
目を瞬きながら呟いたガンクにイルマが近くの壁を指差す。
「な、なんだこりゃ」
「不用意に触れるなよ」
オレも見てみると、砂岩の壁にはスライムみたいな粘性膜が張り付いているのが分かる。水でもなく魔物のような生体反応もそれにはないようだ。
その答えは、よく分からないものだ。それが他の洞窟内部では砂岩自体が光を放つことで内部を照らしているのに、この薄い透明な粘膜が光を吸収しているようだった。好奇心を抑えて触れたい衝動を押し止める。
ガンクが顔をしかめて後ろを振り向いた。
「気味悪ぃな。
なぁナノ、さっき入り口にあった碑文の変な文字だけど、お前ならアレ読めたんじゃねーか?」
当てずっぽうだけどよ、とやや探るような目付きで訊ねたガンク。ナノは言葉を選ぶような慎重な気配を身に纏いながら答える。
「……『礼竜の御心に誓い己が魂を捧げ。
徳を重ね誼を保ち律する者に秩序を諭さん。
礼竜の御意志を拝し己が身に宿すべくは世の理たらん』……」
どこかで耳にした言葉に被せるように連なりだった。でもガンク達は首を傾げている。
「ハァ?」
「むぅ、読めたのか……。意味は解せぬが」
「んん、どゆこと? さすが真竜の巫女ってこと? ナノちゃん解釈お願い」
オレは以前にナノが見付けた岩の祠にあった古い文字盤を思い起こした。ナノが話した内容はあれに似た文面だった気がする。あちらは義竜でこちらは礼竜の違いだろうか。
コルテに催促されてナノが頭を捻りながら伝える。話したそれはだいぶ噛み砕き過ぎみたいだったけれど。
「うーん……、こんな感じかなぁ。自信無いけど。
ちゃんと、しっかりと礼節をもった行動をして過ごしていったら人生が豊かになるし、それをサポートする助けをしてあげるよってことかな」
「そんなことが小難しく書いてあるのか」
「うん、多分」
それぞれが目を細めて真竜の巫女の末裔であるナノを見詰めている。訝しむ視線を受けて、ナノはそれを勘違いしたように、やめてよとパタパタと手を振り制しては照れ始めてしまった。
ナノ、みんなの視線は尊敬の眼差しじゃないぞ。勘違いしてるぞ。
呆れ顔になりガンクがため息を漏らす。
「なんだな、真竜教っての大丈夫か。言っちゃ悪いけどナノみたいなのが末裔でよ」
「邪竜教などと呼ばれる所以を微塵も感じぬな」
「うーん。聞くより見てみたら、存外ゆったりのほほんな気質の集まりだったのかもね」
ガンクの意見に珍しくイルマもコルテも同意で意思統一されている様子だ。
でもガンクもイルマもコルテも、どこか盛大に安堵したような表情を浮かべているのは気のせいだろうか 。ナノが国家転覆を企てるキナ臭い告白をして口に出そうと出すまいとそれぞれが緊張していた筈だ。それが今のナノの発言でもしかしたら思いの外緩和したのかもしれないな、とオレは感じていた。
そしてさらに洞窟内部を進んでいく。相変わらず魔物なども姿は全く無い状況はとっても進みやすい。だから敵の襲来が無い分だけ進行する速度も早い。
それでもガンクの魔化コッコーが負傷してびっこを引いているためにゆっくりと、辺りを頻りに検分しながら先へと歩を進めていく。
今まで入った他の洞窟と比べまた違う点に気付く。先へと進む通路は緩やかに下っていたのだ。通路は不可解な粘膜が周囲の壁を覆っているだけで、道を通せんぼするような罠も無い。そして進むにつれて鼻孔をさわさわとくすぐる水の匂いが強まってきている。
イルマ達も気付いたらしい。
「む。この湿り気、粘性膜のものかと考えていたが、違うのか。……奥に水があるのか」
「あ、やっぱし? 地下水脈とか泉あるかな。あったらいいな」
「何喜んでんだよ」
ガンクが腕を胸の前で組み躍りだしそうに動いているコルテを振り返り尋ねる。
「んー? お、ふ、ろ」
「おいガンク、前を向いていろ」
「あいよー。あれ、なんか像みてーなもんがあるぞ」
ガンクが駆け寄ろうとする前にイルマが止めた。その前に魔化コッコーが走らせたくても走れないのだ。
普段なら暗がりのような不鮮明な暗視の中ならイルマが魔道具のランタンに光を灯し周囲を照らして進む。けれど不気味な神格級の敵と思われる気配を肌に感じているイルマはそれをせずに、より注意深くただでさえ細い目を狭めてそれを睨み付けていた。
ガンクが見付けたその像っぽいものは胴長の竜だった。蛇に足が生えた感じの東洋でみられる竜に近いものだ。それが通路奥の両脇に左右対照で浮かぶような格好で鎮座していた。その二体の竜の像の間の空間は先が全く可視不可能な暗闇だ。そしてこの竜の像にも粘膜が張り付き、表面は壁と同じように不自然にヌメヌメしているようだ。
上で、ヒュウと息を呑む音が聞こえた。
見上げるとナノが口に手を当て目を震わせている。どうしたの、と見ているとナノが動揺を紛らわすようにオレの背中に手を置いた。
オレ達へと振り向いたガンクが訊ねる。
「どうした?」
「竜に目が無い。それに、角も……」
呟いたナノの言葉に従うようにその箇所へと目を凝らしていく。するとナノが言うように確かに竜の像二体ともに目の部分は掘り取られたように窪んでいた。そして一体にはちょうどオレでいう猫耳の辺りに立派な二本の角が備わっているのに、もう一体の方はその角どちらもが根本付近から折れたように忽然と消失していた。
こうして凝視すれば分かるけど、実に精巧な造りの竜の像だ。緩やかに弛んだ長い立派な髭も皺が刻まれ今にも吠えだしそうな口顎に牙も豪奢な背鰭も細かな鱗も、見れば見るほど本物そっくりでうっすらと悪寒が走る。
魔化コッコーに乗ってなかったらと思うと怖いよね。同じくらいの高さだし、真っ暗な中を歩いてていきなりこんな暗闇に浮かぶリアルな竜の像に出会したらチビっちゃったかもしれない。
顎に手を当て、触らないようにガンクもじっくり眺めながら感嘆の息を漏らしている。
「確かにねーな。それが無くても迫力は十分過ぎるけど」
「うむ。これも先程の入口同じく永年の歳月が……」
「違う。そんなんじゃない!」
「ど、どうしたナノ?」
イルマの言葉に被せるように否定したナノ。オレの背中に置かれた手がより強く震えたままガシリと掴んでいる。
「そんな。やっぱり双竜の身に異変が……。しかもこっちの方は瞳も角もだなんて」
「なんだ、何を言ってる。どういう意味だ、落ち着け。話してくれ、詳しく」
「うん、えっとね……」
ナノが話して聞かせた内容は、これと同じ二体の竜像がナノが育った故郷にもあったという話から始まった。その片一方はこの礼竜の祠を管轄とするように守護しており、もう片方はナノの生まれ故郷を同じく守護する役目を負うらしい。その二体の竜像は離れていても特殊な力で結ばれており、ナノが故郷を離れる前はこんなことではなかったという。
「へぇ、同じものが、でもちょっと待った。守護ってなんだよ、像が護ってるってのか」
「像じゃなくて竜だよ。実態としての竜」
「まさか、それって俺が倒したワイバーンのことかっ」
慌てたようにガンクが尋ねるけどナノは首を振り否定した。
「違う。あんな貧弱でちっぽけな飛竜なんかじゃないよ。もっともっと、強くてでっかい、お父さんのような竜だよ」
「お、お父さん?」
目を見開いたガンクが固まりながらナノを見ている横で、黙ったままイルマが検分を進めているようだ。
「この粘膜が原因ではないようだな。この先に進んでみる他あるまい」
「そうだね。ここで議論しててもしょうがないよ。進んでもあたし良いことある気が全然起こんないけどさ」
自身を抱き抱えるようにコルテも身を竦めながら、気合いを込めるようにして頭を振るった。
一旦気持ちの入れ換えと引き締め直しを終えて、二体の竜像が並んだ間の通りへと足を踏み入れる。魔化コッコー二体が横に並んで通行出来るくらいの広さがある。ガンクとイルマが横に並び入る後ろで、オレは慎重に周囲の気配を探りながらナノと共に奥の空間に入った。
そこはとても広大な地下空間が拡がった場所だと感覚的に判った。沈殿した空気の混ざり方がなんとなく真っ暗闇の奥まで隔てる壁は無いとオレに判断させた。
さっきから音が全くしないのは、音も光も全て周囲の壁を覆う粘膜が吸収してしまっているせいなのかな、とふと感じた。そして奥からこの世の深淵のような静寂の気配が否応なしに伝わり背筋の毛がえらいことになっている。自然と逆立ってしまう毛が水玉キャットドレスの下で窮屈に暴れていた。
窮屈で仕方ない。脱ぎたい。もうここなら要らないよね。
そんなことをオレが考えていると、視界が強烈な光で咄嗟に占められた。
「うっ!?」
「眩しっ」
突然の強い光に焼かれたような痛みに見舞われ目が悲鳴を上げている。でもあくまで光の刺激だけのようだ。あまりの急激な眩しさに光に目が慣れず、きつく瞼を閉じてそれでも何が起こってもいいようにと身構える。
なんだこの明かり、どうしたんだろう突然……。
しばらく、とはとても言えないような時間をかけて明るさに慣れていった目が捉えた光景は、洞窟奥の反対側でその壁の手前にある地底湖と思われる大きな水溜まりだった。
でも水脈みたいに流れがあるわけでも無さそうで真ん丸の形を成したその水溜まりのような湖は鏡のような表面のままで上部の天井壁を映しながら完全に停止していた。それ以外に周りには何かあるわけでもなく、ただそれだけだった。
「ここは一体……。それにこの明かりは」
「ああっ、湖があるっ! 久しぶりの水浴びが出来るかもっ」
横にいるコルテが眼前の湖を捉えて目を輝かせている。前のイルマを押し退けようと魔化コッコーを進ませようとする。
「コルテまだ待て、逸るな」
「イヤ、離して! 女の子にとってこれ以上無い宝物があそこにあるの」
「お風呂ですか。どうぞ、構いませんよ」
「ほらいいって! ナノちゃん一緒にお風呂入ろう。あんた達は出てって」
「ちょっと待て、誰だ今の声は」
「え?」
「は?」
え?
つい聞き流してしまっていたけど、慌てて振り向くとそこには一人の男が突っ立っていた。
誰だ?
気配を全く覚らせなかったその男を凝視しながら生唾を飲み込む。
男は神妙な顔付きをしたまま、可笑しなものでも見る目付きでオレ達の様子を眺めていた。
ヤバイヤバイと、頭が大音量で警鐘を打ち鳴らして騒がしい。それと平行して、どこかで見たことある奴だ、と脳味噌が記憶をほじくり映像をぶち撒けている。頭の中での大騒ぎにクラクラと目眩がし始める中で男が口を開いた。
「入られないのですか。そちらの淑女は湯浴みをご所望ではないのですか?」
「貴殿の名前をお伺いしてもよろしいか」
イルマがそう尋ねると男はクスリと笑い、目の色もより愉快なものを眺めるものへ変わりまた顔付きも弛んだみたいだ。
「カルクスと申します。メールプマインにて一度お会いしてるかと存じますが、その節は大変お世話になりました」
「カルクス! くぅ……、ランド!」
カルクスだと名乗った途端に、押し留めていた魔力を決壊したダムのように解放し発散させると、弛んだと思ったその顔は不気味に歪み口の端が吊り上がった。
名を叫ばれオレはナノを護るように立ち上がる。目の前の男と向き合う形をとった。
カルクスだって!?
本当に? 前に第三番街の『光夜烏』の倉庫で見た時と、見た目も変わってるし魔力の質も両も全く違う、いや桁違いだぞ。
18.12.25表題に副題追加