1.ねこのチビ
くあーあぁ。
騒々しく鳴き始めた鳥の囀りに耳をぴくぴくさせる。大きな欠伸を一つしながら前足で目蓋をこすった。
うん、よく寝た。
今日も爽快な目覚めだ。
空の樽の上でスッと立ち上がり前後に伸びをする。漆黒の体をぶるぶると揺する。
自己紹介させてほしい。
オレはねこ。名前はまだ無い。
……なんて、前にどこかで耳にしたような文章が頭を過った。
前世が何だったかなんて思い出せない。だって、ねこなんだもん。
もしかしたら世の中で必要とされる超絶に有能な人間だったかもしれないし、サバンナを駆け抜ける最強最悪の百獣の王だったかもしれない。
多分ないと思うけど、揺れる蒲公英のしかも空を舞う綿毛のひと欠片だったかもしれない。
そんなことはどうでもいいんだ。
大事なのは今。
その日その瞬間を楽しく幸せに生きるのが重要なんだ。
知り合いのねこからは、お前はいろんなこと知ってるから、[怖い、近寄るな!]って、そう怖れられることもあるけどね。
仕方ないだろ、知識に罪は無い筈だ。
よし。
今お世話になっているオレのご主人、ユーノが来る前に早いところ頭上で鳴いてるピーチクパーチクうるさい獲物を仕留めようかな。
目標は木の枝で騒いでいる数羽の小鳥だ。その中の一羽に狙いを定めて、後ろ足に力を込めて思いっきり飛び上がった。
……あ、失敗。仕留め損ねた。
伸ばした爪先を掠めるまでもなくオレの挙動を察知した鳥は一斉に空へと羽ばたいていった。
そして、ガチャリと後方で音がして扉が開いたようだ。
オレはユーノを見やりながら華麗に着地をキメた。
散り散りに空へと逃げ去る鳥たちを恨めしく睨んだ顔から、てへぺろの顔になってご主人様の下へ駆け寄った。
ここはコカコ村。
この村では人間たちの話じゃ、魔王の侵攻とか支配がどうとかなんて物騒な噂はお伽噺のようなもの。魔物の脅威なんかも、ごく稀に耳にすることのあるくらい。そんな平和で長閑な村だ。
とはいえ、ねこのオレには魔王なんて関係ないし村の安全の可否なんて気にも留めないよ。
日々昆虫採集したり、花や草の匂いを嗅いだり、美味しいご飯をご馳走になったりすることが生きがいなんだから。
フリーダムなライフスタイルが出来ればそれこそ最高の暮らしだ。
でも少しだけ刺激が少なかったりするのは残念に思う。ねこ同士の縄張り争いもあるけど、気が乗らないし平穏が一番だから無理してまで他のねこをけしかける気は無いんだ。
「おはようチビちゃん。鳥さんに意地悪しちゃだめよ」
ユーノってばしっかりオレの狩りを目撃してたんだな。成功しなかったけど、それはそれで良かったかな、と思った。
だって、きっとオレが鳥を捕まえてユーノに自慢気に見せれば悲しがられたって想像出来るから。ユーノを悲しませたくないし怖がらせたくもない。
それに、オレはまだ小さな子供のねこだから、『チビちゃん』なんて可愛らしく呼ばれてる。ちょっとむず痒いんだよ、実は。
いつか、それこそきっと百獣の王みたいに『ねこきんぐ』とか格好良く呼ばせてやるんだから。
洗濯物を持ったユーノの足に体を擦り付けまとわりついた。
「急いでご飯の用意するから、ほら、そんなに慌てないで。落ち着いて」
ユーノはおっとりしていて、いつも笑顔を絶やさない。オレの母親みたいな人間だ。実際ママがいないオレはユーノの匂いがママの匂いだって考えてる。
抱っこされて、柔らかなおっぱいにしがみつけば堪らなく幸せな気分になれるんだ。
戻ろうとするユーノの足に何度も体をすりすりと擦り付けては、オレは今日の朝ごはんに期待を膨らませた。
一匹のねこの日常からこの物語は始まります。
楽しんで貰えると嬉しいです。