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「本当に大丈夫なのシン?」
「うん、平気」
夕食を終えた、まったりとした時間帯。お母さんからの問い掛けにシンくんはしっかりとした笑みを浮かべて答えました。
学校での一件と本物の消耗具合から早退を許され、今では元気に夕食ではおかわりを要求した位のシンくん。お母さんももしかしてズル休みかと内心では心配しましたが余りの屈託のない様子に『明日は元気に学校へ行くこと』と約束をさせて許していました。
「シンー、分かってるでしょうね? 食べたら?」
「はいはい歯磨き歯磨き」
「もう……前みたいに歯磨き粉をムダ使いしたらいけないからね」
「はーい」
笑みを浮かべたシンくんは小走り気味に洗面台へと向かいました。
狭いながらも楽しい我が家。余り歯磨きは好きではないシンくんもお母さんを心配させてしまった自覚はあり、もう変な噂を信じないと心に決めています。
【生まれ変われる鏡】好きなように変われると言われてもやっぱり今の自分が一番だと、少し大人になれた気のしたシンくんでした。
「えっと歯磨き粉……」
もう怖くはなくなった普通の鏡を前にして、シンくんが歯を磨こうとした所で不意に、洗面台の電気が消えました。
「え、なに!?」
突然の停電にびっくりしたシンくんでしたが、光はすぐに復旧し灯りは戻りましたが何故か少し暗くなったように感じます。
「なにが……」
視線を右往左往としていたシンくんは目の前の鏡を目にして固まってしまいます。眩しい光に覆われた鏡の中の景色、その体一身で光を浴びる鏡の中のシンくんがこちらを見て『笑いかけた』のです。瞳に走る白の傷、ガラス玉の目、開いた唇の奥に見える赤い舌。
「な、あ」
カリカリ
「ッ!」
音が、聞こえました。何かを引っ掻くような乾いた音。何度も聞き、それでも耳慣れない嫌な音は今までとは違いシンくんの、すぐ後ろから聞こえました。
カリカリカリカリギチギチガタガタガリガリガリガリガリ
「──」
何かが蠢く音。
「あああああ!」
シンくんは走り出しました。
「お母さん!」
居間に駆け込むが誰もいません。薄い光に彩られた、色素の抜けた家具が並んでいるだけです。
「お母さん、お父さん!」
今は仕事で居ないはずのお父さんも呼び、家中を走ります。
「お母さんお父さんおばあちゃん△△くん◇◇ちゃん○○!」
思い付く限りの人の名を呼びます。誰もいません。
叫ぶ声ばかりがこだましてつかず離れずに付いて来る掻き毟る音達。
半狂乱になったシンくんは転がり掛けながらも足を動かし、声を上げ……遂に助けとなる人の声を聞きました。
「シン」
「ッ!」
それは、お母さんの声。
「シン」
お父さんの声。
「シンちゃん」
「シン」
「シンくん」
友達。先生。ヨウコちゃんの声。
全ての声が聞こえてきたのはシンくん自身の部屋でした。
「助けて、助けて、助けて!」
走るシンくんは付き纏う音を振り切って自分の部屋の前に立ちます。名前を呼び続ける皆の声。嫌だ、嫌だと金属製のノブを手で掴み全力で押し開くと中に入ります。
見慣れた部屋。
使い古された机。
買ってもらったばかりの玩具。
──目。
「あ」
部屋一杯に敷き詰められたら白と黒のガラス玉。毛のような赤い線。粘液にまみれた積み木の上で聞き慣れた声が混ざり合い。
──目、目、目、目、目目目目目目目。
ひとつになって聞こえます。
「──ァ」
変ワロウ
──翌日。
皆の心配をよそにシンくんはそれはそれさは大活躍をしたそうです。
体育の授業では常に人目を集め、授業中の難しい問題にだってスラスラと答えてしまう。少し取っ付きにくかった人柄もなりを潜め、誰からも愛されるクラスの人気者になりました。
急激に変わったそんな彼に対し幾人かの知り合いは思いました。
『まるで、生まれ変わったみたい』と。
人は『上』を目指すものです。今よりいい自分を見てしまう為に変わってしまえばと心に思うのは仕方ありません。
もしも、どうしてもというならば件の鏡にお願いをしてみてはいかがでしょうか……多少の不思議体験と引き換えに夢の自分を手に入れる事は可能かも知れません。
しかし、一点だけご注意を。
例え生まれ変わったとしても理想の貴方が『今の』アナタである保証は何もないのですから──。
──まあそう焦らずに、とりあえず、そうですね英検とかどうですか? 簡単ですし資格を取ると将来の役に立ちますよ。
後は運動。顔や容姿は……親から貰った身体を余り傷付けるのはお勧め出来ませんから。人に優しく、会話の練習なんてすれば魅力なんていくらでも付いて来ると思いますよ。
何もこんな怪異に頼らずとも人はいくらでも変われるんですよ。
え? 怪談の締めなのにそんな終わりでいいのかと?
……いいんじゃないでしょうか。
あくまで『学校の』怪談ですからね、明るく素敵な未来の学び舎に最後はちょっとした教訓紛いの事で終わる……そういうの、私好きなんです。
話しを終えた『語り手』は最後に含み笑いを残すと去っていきました。夕焼けの茜色が差す空。歩き出す語り手の残す長い影が道路に映ります。
不意に強い風が吹き抜けました。
風に一瞬目を閉じ開いた『僕』の目、再び開いた時には語り手を睨み付けるように浮かぶ無数の瞳が見えた気がします。
「何か?」
振り返り首を傾げる語り手に、余りにも短い時間。先程見えた目玉達はまるで蜃気楼のように消え去ってしまい、単なる気の迷いに過ぎなかったとしか思えません。
「……では機会があればいつかまた」
最後の会釈。
今度こそ、振り返る事無く歩き出した語り手の背後に、長くて黒い歪な影がいつまでも残り続けていました。