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『あるはずの無い物が聞こえる』
現代社会でそんな事を言い出せば精神疾患として病院行きを勧められるかも知れませんが、確かにシンくんはあるはずのない音が聞こえ続けました。
カリカリ
カリカリ
カリカリ
確かに聞こえるその音は、今や鏡を覗き込んだ時だけではなく至る所から聞こえます。光の照らし方によっては自身を写す透明な窓ガラス、道端の広い水溜まり、金属製のアルミニックな箱、自分自身のペンケース。
「ッ!」
鉛筆、消しゴム。その他の文房具の入った入れ物を上から叩き付けてシンくんは机から落とします。
ガシャリと高い音は先生の言葉の響いていた教室内に一際高く鳴りました。
今はまだ授業中、訝しむ先生だけでなく周りの友達の視線まで一気にシンくんに集中します。
「あー、○○くん。どうかした?」
「な、なんでも」
先生の言葉と視線に言外でさっさとペンケースを拾う事を促されましたがシンくんは手を伸ばせません。
怖いのです。
少しでも自分を写す何かが傍にある事が。作り物めいた目はいつまでも体に居座り続けました。間断なく響く引っ掻き音は意味が分からないからこそ不安を煽ります。
何かを見てしまうのが嫌になり俯き続けるシンくんにふと影が差します。不安に怯えてビクつく彼が顔を上げると、そこにはペンケースを拾ってくれたヨウコちゃんの姿がありました。
「大丈夫? シンくん」
「あ」
……人を安心させるような優しい笑顔。見惚れる愛らしさのヨウコちゃんの顔にしばらくシンくんは動きを止め、やがて何かを思い出したかのように慌てて動き出します。
「ご、ごめッ、じゃない。どうも」
「ふふ」
心乱れても未だに意地が先を行くシンくん。本当は嬉しいはずなのに視線を横にずらし、ぶっきらぼうに声を上げます。
不安の種となる落とした物を……正直に言えば受け取りたくないのですが、差し出された手に触れるように指を前に出し──
「ねえ、シンくん」
「ん?」
「『変わった』?」
……顔を上げたシンくんは『見ます』。愛くるしいヨウコちゃんの太陽のような笑顔の上にある【傷】のある瞳。
白と黒のガラス玉。赤く細い毛のような血管。白くジグザグに走るあるはずのない跡。
「ば──」
そして、聞くのです。
「ばけも──」
カリカリ
カリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
『うわあああああああああああ』
……気付いた時にはシンくんは走り出していました。今は授業中とかそんな事は関係ありません。教室の扉を乱暴に開き、制止する友達や先生の声を振り切り、床をがむしゃらに踏み鳴らして。
【元凶】に心当たりがありました。張り巡らされたガラス窓から逃げ出す事を許さずに付き纏う爪の音。駆け出す度に景色は変わり、降り注ぐ光源がどんどんと樹木に邪魔されるようになるとシンくんはようやく目的の場所に着きました。
「ハアッハ、ハァ!」
相も変わらずに昼だというのに暗い渡り廊下。『前回は』おずおずと周りを確認していたシンくんも今日ばかりは大急ぎで走り出し、巨大な姿見鏡の前に立ちます。
この場所に来ると耳に聞こえたざわめきは今や嵐のように、あらゆる場所から聞こえる『突き破ろう』とする音を耳にシンくんは鏡を叩きます。
「取り消す! 取り消すからやめてくれ!」
カリカリカリカリガリガリガリガリガリ
「変わりたくない! 変わりたくない! 変わりたくない!」
ギチギチガタガタギチギチガタガタガタガタ
「今のままでいい! 今がいいんだ、俺はこのままで」
カリ──
「やめてくれよッ!!」
「あ?」
……声を上げ、気付いた時には『音』はなくなっていました。上へと上げた顔にひび割れた鏡に映る自分の顔には、ガラス玉ではなくちゃんとした自分の目。
「あ、は……」
張り巡らされた力が抜けきったようにシンくんはそのまま鏡にもたれかかりました。
吐き出した長い吐息に遠くの方から近付いてくる音……しかしそれは今まで危惧したようなものではなく、もっとちゃんとした聞き覚えのある人の声。
「おいー! ○○! 一体どうしたんだ」
「は、はは」
シンくんの顔には自分でも知らずに笑顔が浮かんでいました。