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【鏡】というのは不思議なもので、時たまおかしなものを映し出す事があります。
一瞬視界の端に見えた黒い影。自分しか居ないはずなのに感じる誰かの視線。
多くの場合それらは余りに短過ぎ『目の錯覚』『気のせい』と見過ごしてしまう事が多いのですが……中には、あるのです。
そういうおかしなものを写す為だけに存在するような特別な【鏡】が。
先ずは鏡本体の話しをする前に、鏡の置いてある場所とその経緯をお話しをしましょう。
場所はとある県境にある田舎の小学校。問題の鏡は数十年前の卒業生によって学校側に贈られた寄贈品でした。
送り主はよく名の知れた芸術家。
非常に美意識の高いその人物は懐かしの母校を巣立つ幼き後輩達に『小さい頃から他人の眼を気にする事の出来る人間になって欲しい』と、高さ250センチ、横幅90センチ。飾り細工も豪華な姿見鏡を何の見返りもなく譲ってくれました。
しかし……当時の学校長様は大層間が抜けていらっしゃったのでしょうね。あろう事か贈られたその日の内に運搬作業で傷付けてしまい、美しく磨き上げられていた鏡面に縦に走る白いヒビを作ってしまいました。
それはそれは大変慌てた事でしょう。
『不慣れな作業が災いした』『折角贈っていただいたのに申し訳ない』と平謝りをする学校長様。
学校という公の施設であることも助けとなったのでしょう、送り主に対して必死に謝罪を繰り返す学校長に芸術家は気にする素振りもなくこう言ってのけたそうです。
『いいんです、構いません。むしろヒビがあった方が見つめ返される瞳も増える事でしょう』
……それは数年も経てば笑顔で語れるようになるちょっとしたエピソード。
心の広い寄贈主の優しさを学び舎の教訓へと変え、ひび割れてしまった鏡は修復される事もなく当時の姿のままで飾られ続けています。
鏡の設置から更に数年。一体誰が言い始めたのか件の小学校でとある変わった噂話が流れるようになりました。
なんでも覗き込んだ人間を思う通りの姿へと変えてくれる【生まれ変われる鏡】があるというのです──。
「ねぇ、シンくん知ってる?」
眩しかった昼の時間と暗い夜とが交差する短い時間。茜差す木造の教室内で一人の少女が後ろの席の男の子に話し掛けておりました。
その少女は……少女、少女と繰り返すというのも味気がありませんね。仮にヨウコちゃんと名前を付けておきましょう。
明るく、元気で、愛らしい。クラスの中でも中心人物であるヨウコちゃんからの不意な問い掛けにシンくんと呼ばれた男の子はやや上擦った声で顔を上げます。
「あ、いっ、な、なんかよう!?」
「うん」
……ちょっとした挨拶の返しとしては大き過ぎる声変わり前の高い声。
傾き始めた赤い日差しより更に真っ赤に顔を染めるシンくんに対しヨウコちゃんは朗らかな笑顔を浮かべたまま続けます。
「ねぇシンくん。渡り廊下の、あの鏡の噂って知ってる?」
「……鏡?」
……実は流行というものにちょっとだけ疎いシンくん。
鏡と言われて咄嗟に出てくる上手い言い返しはなかったですが、そんな彼であっても耳にした事がある程度にはその噂話は有名なものでした。
【生まれ変われる鏡】。
渡り廊下に置いてあるひび割れた鏡を覗き込むと願った通りの自分に変わる事が出来る。
噂自体を流している大半が小学生でした。言う事、聞く事、話す内容は人によってちぐはぐなものがあり。『必ず見返りが必要』『限られた時間にだけしか出来ない』『誰かに誘われないといけない』。
子供らしい想像力から勝手な条件がいくつも継ぎ足され本当の噂の大元を知る子は今や誰もいませんでした。
「知ってるけど、なに」
小学生とはいえちゃんと自分なりの心のある男の子。『鏡なんて女の見るもの』と偏った知識に包まれていたシンくんは赤い顔のままで意地を張り、本人はキツい顔のつもりの可愛い皺を眉間に寄せると唇まで尖らせて言いました。
「鏡なんて興味ないよ。オレ、そういうの別にいいし」
「えー、そう? 本当に? くすくす」
「む、なんだよッ」
「うん? ん〜、本当に興味なのかなって、だって好きな自分になれるんだよ」
「だから、いいって。鏡なんか見てどうなりたいとか、そんな女々しいこと男が考えるもんかよ!」
「ふ〜ん」
変わらずニコニコと微笑み目を細めるヨウコちゃん。綺麗で愛らしい顔と視線に次第にシンくんは真っ直ぐに見返す事が出来なくなり慌ただしい視線をあっちにやったりこっちにやったりと大忙し……ついには『もう耐えられない』と『さっさどこかに向かおう』と。帰り支度の途中であった鞄に手を掛け腰掛けた椅子から立ち上がろうとしましたが……その瞬間。
僅かに屈んた彼の頭に覆い被さるようにサッと差す黒い影がありました。
「もったいないなあ」
「うあっ」
シン少年に影を作ったのは話し相手であったヨウコちゃん。
前後の席という隔たりを身体を伸ばして越えて来て、佇むシンくんにまるで頬ずりでもしそうな距離まで詰め寄ると笑みを深めます。
「もったいないよーシンくん」
「え、ぇ」
「私、シンくんって結構格好いいと思うのに」
「は?」
「それで……あの鏡まで覗いたら一体どうなっちゃうんだろう」
「く、うぅぅ」
「私、興味あるな」
……全く、最近の小学生というのは末恐ろしいと思いませんか。果たして自分に寄せられる好意というものに敏感なのでしょうか。
今や見るのも可哀想な程に赤く紅く染まったシンくんの頬。至近距離から目を向けるヨウコちゃんの顔を見つめたまま息も忘れたように固まってしまいます。
『ヨウコちゃーん』
「ん? あ、はーい」
「く、ぁ……」
遠くから聞こえた人の呼ぶ声に。
ヨウコちゃんは迫っていたシンくんから視線を外し、頭を上げます。
バクバクとうるさい程に脈打つ少年の心臓。離れていった整った顔に感じたのは一抹の寂しさより強い安堵感でした。
どうやら意図せずシンくんを救い、ヨウコちゃんを呼んだのは隣のクラスの男の子のようでした。教室扉の前に立った彼に目を向けたシンくんは感謝の視線を送るよりも先に目を見開きます。
それは機微に疎い彼から見ても清潔感に溢れ格好の良い男子生徒。
助かったと一瞬でも思ってしまった自分を嫌になりシンくんは再び浮かべた顔を引き締めます。
「呼ばれちゃった、じゃあシンくん。またね」
「あ、うん」
しかし、当のヨウコちゃんはマイペースそのもの。赤色をした少年の物よりも一回り小さいお洒落な鞄を手に取ると、招かれるままに走り出し現れた男子生徒の元へと向かってしまいます。
「……なんだよ」
行き場のない感情を呟きへと変えたシンくんは自身の机を乱暴に指で叩き、その際に僅かに振り返ったヨウコちゃんと短い時間の間目が合いました。
「 」
「ッ」
口の動きだけで伝えられる四文字の言葉。恐らくは『バイバイ』と軽い帰りの挨拶でしょう。
途端に恥ずかしくなってしまったシンくんは机の上へと深く俯き、盗み見るような視界の隅で二人仲良く歩き出すヨウコちゃんと男子生徒を複雑な気持ちで見送ります。
「オレも、変わればああなれるのかな」
今まで何の興味も沸かなかったふざけた噂に、シン少年はこの時初めてやってみてもいいかなと思い立ちます。
……果たしてそれが一体どんな結果を呼び込むか。
好奇心と気持ちだけが先を行く幼き少年の心では、とても考えられるものではありませんでした。




