ポーションを作ろう
俺がこの森に来て、一週間ほど経った。そのほとんどを生活基盤作りに費やしたと言っても、過言ではない。
絹糸を絹にするため、織機を作り布地を精製した。
その過程で家が手狭になったので、ログハウスを取り壊し、新しい家を作成した。その際に鍛冶でガラスやコンクリートを作り、家に使用している。もちろん、壁には漆喰も使っている。ガラスにせよコンクリートにせよ漆喰にしても、材料自体は作成可能なので魔法と鍛冶でなんとか成功した。
できあがった我が家はガラスを使った窓もあるし、コンクリートや漆喰のおかげですきま風もなく、とても丈夫なものに仕上がった。この世界の建物の造形は知らないので形は向こうの家屋を参考にしている。色も無難に白だ。部屋数も多めにし、工房もあれば、俺とサクラの個室もある。……後、客間もあるにはある。
俺もサクラも着の身着のままだったので、衣服の類はなかったので清潔な生活をおくるためにもいくつか揃える必要があり、布地作りと裁縫を何度も行い苦労した。まだ家作りとかならある程度は魔法も使えるんだが、細かい作業となるとそうはいかない。集中力上昇魔法や動作速度向上魔法に時間経過遅延魔法くらいしか使用できなかった。結局、それらを使ったところで俺が地道な作業すをすることには変わらず、単純作業の連続で嫌になった。おまけに服ができあがるやいなや、自分達の分も欲しいとビーさんにパピさんも言い出す始末だった。
そしてそれらの作業が終わったのがつい三日前で、その後は食器やら家具やらオーブンなどの生活品を魔法や鍛冶で作成した。そうこうして、今日になってようやく、一息つけるようになったのだ。
しかし、もしかしたら異世界に行くことがあるかもしれないから、向こうで役立つ知識を覚えておこうと努力した中二病全開時の経験が役に立つとは思わなかったな。
「――物作りって大変なんだな」
「……スバルのは、物じゃなくて村を作ろうとしているみたい」
俺が遠くを見つめながら発した言葉に、目を細めたサクラが容赦なく突っ込んだ。
白色のニットに藍色のカーディガンにジーンズ、そしてクマ革製のブーツといった服装のサクラは衣装のせいもあってかモデルのようにも見える。
しかし、どこからどう見ても現代人だよな。剣と魔法の世界でお馴染みの、中世風の格好じゃないよな。まあ、しょうがないんだけど。
俺は服飾関係のチートを持っている。そして、中世風の衣装も思い浮かぶ。けれど、思い浮かぶだけで実際の作りを知らないし、実物も見たことがない。さすがにそんな状態では作るのは難しい。現代風の衣装の方がはるかに簡単だ。それに誰もいないこの森でわざわざ中世風にこだわる必要もない。まあ、デニム生地みたいな現代風な布地の織り方も、服飾の技術書に載っていたのも大きい要因ではある。
それにしても、村、ね。言い得て妙だな。文明レベルの生活をするのだとしたら、最低でも村クラスは必要か。行商人やら近くの村を探せばここまで苦労する必要はないだろうが、今のところその案はなしだ。俺の世界でのファンタジー知識でだが、ゴブリンは人類の敵というものが多い。そもそも、俺のような人間がこの世界にどれだけ幅をきかせているかもわからない。しばらくはこの森で暮らし、森のマッピングと近隣の地図を作成し、いずれ俺だけで近くの村なんかに行って情報を集めてこよう。それが一番最適だろう。
「となると、もう一踏ん張りが必要だな」
「……また、何か作るの?」
「まあな、備えあれば憂いなしっていってな。何かあった時じゃ遅いから、何が起きても大丈夫な様に用意をしとくんだよ」
「……きっと、何を言っても無駄だから、もう何も言わない」
呆れたような口調で言うサクラに、賛同するように居候共が口を開いた。
「そうですね。スバルさんは自分の言うことを曲げませんしね」
「うんうん、スバルちゃんは間違ったことは言わないけど、正しくもないんだよね」
黒色のチュニックにデニム地のホットパンツ、クマ革のブーツで印象的には渋谷にいそうなギャルっぽい格好をしている、敬語なのがビーさんだ。
若草色の丈はやや膝上のワンピースにクマ革のブーツでカジュアルな感じでタメ口なのが、パピさんだ。
ビーさんは基本敬語でパピさんは初対面時の時こそ敬語だったが、いつの間にか今の口調になっていた。
そして、この二人何故か俺の家に居候している。食料もあって居心地がいいかららしい。迷惑な、と言いたいところなのだが、サクラと同じ女性というところでかゆいところに手が届くところや、俺が作業中でもサクラを一人にしないで良い点は助かっているので追い返すことができない。
ちなみに一緒に生活するうえで名前がないのは不便ということになり、ビーとパピというのを提案したら採用されてしまい、本当にビーさんとパピさんになった。
「で、今回は何をするつもりなんです?」
好奇心を含んだ視線が俺の瞳にぶつかる。森の中じゃ見たこともないものが多いから、物珍しいんだろう、きっと。半分、珍獣扱いの気もするが。
ちなみに、俺たちは今家の中でテーブルに座りオレンジジュースを飲みながら、一息ついてるところだ。
何をするつもりね。衣食住が最低限整ったなら、次はそれを維持するための根本だ。――いわゆる、薬作りだ。
「ポーション作成だよ」
それもファンタジーならではの。
薬学の技術書を読んだが、残念なことにそこにはポーションのような瞬時に怪我が回復する薬物のことは書かれていなかった。
存在しないということはないだろう。魔法で似たようなことが可能だし、時間を見つけて探索がてら鑑定で効能を調べながら薬草を採取していたが、即効性は無いものの向こうの世界では考えられないような速度で治癒するものがあった。あくまでも鑑定の知識だが骨折が一週間で完全回復は異常な速さだろう。
「他の薬物を混ぜたり、成分を抽出して濃度を濃くすれば良い気もするんだけどな」
そんなことをつぶやきながら、ブラックホールを思わせる黒い亜空間に採取した薬草を投げ入れる。
今俺は拠点から離れ、一人で森を散策している。とはいっても、拠点から距離はそれほど遠い場所にいるわけではない。拠点の近くでも十分な量の薬草が手に入るから遠くに行く必要がないのだ。
正直、採取だけでかなりの手間がかかるなら、俺はポーション作りを止めている。ポーションがあれば便利だが魔法で同じことができる以上、それほど重要性はない。自分がいないときのことも考え、回復できる武器もサクラには渡してある。それを量産したほうが結果としてははやいかもしれない。あくまでも念のためという要素で、ポーションが欲しいのだ。
何らかの理由で魔法が効かない場合や急に魔法が使えなくなることに、魔法では治らない傷だってあるかもしれない。そんなもしもが来ないとは誰も言えない。ただその時に備えているだけだ。そして、それが来る確率が限りなく低いことも分かっている。基本的に俺たちはこの森で拠点をベースに生活するつもりだ。つまるところ、今と環境が極端に変わる可能性は少ない。それならば、新しい脅威が襲ってくることは隕石が突然降ってくることと同意義程度だろう。
長時間屈んでいたせいでいい加減腰が痛くなってきたので、立ち上がり腰を伸ばす。
辺には天高くそびえる樹木とうっそうと茂った種々ばかりだ。草花の発育がよくないのは、樹木に遮られ日光を浴びていないせいだろう。そのせいか、地面もやわらかく、湿った大地特有のどこかかび臭いような青臭いような濃い森の匂いが漂っていた。
「――静かだな」
生き物がいないわけではないだろうが虫の音や鳥の鳴き声も聞こえず、ただ木々が風に揺れる音だけが響き、却ってそれが静謐を強調させていた。
静かな時間に穏やかな空気か。
そういえば、久々だな、こういうのは。なんだかんだで忙しかったし、一人になることもなかったしな。
それは突然だった。久々にゆるやかな孤独の気配に浸かっていると、胸を鷲掴みにするような感情が心を揺さぶった。
そして、ふと、なぜか急に泣きたくなった。
未練や、懐かしさとは違う。襲ってきたそれは、どうしようもないほどの違和感だ。
休みの日に学校にいるような、平日に自室で昼まで寝ているような、旅先で寝起きに見知らぬ天井を見ているような、こうじゃない、そうじゃないと、自分がここにいる意味がわからなくて、体が心が叫んでいるようなそんな感覚。
手を振る姿が見えた気がした。どこか遠い遠い河のほとりで、見知ったたくさんの誰かが俺に向かって別れを告げているような、そんな姿が脳裏に浮かぶ。
覚悟はしていたし、わかっていた。それでも、なぜか、涙が溢れてくる。
哀しいわけでも、苦しいわけでも、切ないわけでもない。ただ、疑問に思うだけだ。
どうして俺はここにいるんだと。どうして俺は帰れないのだと。
止めることのできない涙にとまどいながら、心のどこかで思った。これはさよならなんじゃないかと。
向こうの世界に、向こうにいる誰かに俺は手を振っているんじゃないだろうか。ありがとうと、あなたにあえて良かったと。――だから、さようならと。
異世界に来て一週間、忙しさが少しだけ抜けて余裕ができ、俺はようやく自分と向き合えているのかもしれない。
心細くて弱い、迷子の自分に。
あれからしばらく、涙は止まらなかった。
おそらく、一時間位泣いていただろう。時計がないので正確なものはわからないが、体感ではそう感じた。薬草の採取自体は終わっていたので、魔法で水を作り顔を洗うと帰宅した。そして今、家で薬の調合中というところだ。
今俺がいる場所は、工房だ。フローリングというよりは木造といった感じの床に、空気入れ替えのために小さな窓が一つあり、それと魔法を利用した水場に同じく魔法を利用した火床、そして、大きめの作業台と二つの椅子。その他のスペースは棚や器具で埋まっている。ちなみに器具は、記憶をもとに全部魔法と鍛冶でのお手製だ。
「……何しているの」
「んっ、薬草の薬効が強い部分だけを集めて潰すことで、効能を強くしてんだよ」
「……ふーん」
ガラス製の乳鉢で採取してきた薬草を潰し、サクラは頬杖をつきながらそんな俺を見ていた。火や危険な薬物があればここにいさせるわけにはいかないが、今回はそんな心配はないので作業を見たいということなので見学させている。パピさんとビーさんはリビングで二人仲良くお昼寝中だ。俺が苦心して作ったソファーがお気に入りのようだ。おかげで作ったはいいが、ろくに座ることができていない。
「こんなもんかな」
乳鉢の中には緑色の粉末ができあがっていた。薬草の粉末は他にも幾つかあり、後はそれらを混ぜて熱湯で煎じれば一応は完成だ。成功かどうかは、まだわからないが。
「悪い、サクラ、そこのお湯の入った鍋を持ってきてくれ」
「うん、わかった」
小さな片手鍋を両手でもってきた桜にお礼を言い、そのまま作業机に置いてもらう。温度自体はそこまで高くない、せいぜいお風呂程度だ。熱すぎると薬の成分が壊れるためだ。
鍋の中に粉末状の薬草を入れ木製の箸のような棒で混ぜる。鍋の中で小さな渦ができると、水はすぐ緑色になり青汁のようなものができあがった。うん、まずそうだ。とりあえず、鑑定してみるか。
【促進ポーション+】
効能:自然治癒力を促進し、並大抵の怪我や病気なら瞬時に治す。部位の再生や瀕死の重体は不可能。それと体力を消費するため、十分な栄養を摂取している必要あり。
≪説明≫
いくつもの薬草を混ぜ、促進能力を強化した回復薬。
水のミネラルが高く澄んでおり、薬草の成分が高いため品質が上昇している。
魔法での効能の強化が可能。
ふむ、一応狙い通りのものはできたかな。魔法を使えばもっといいものが作れるみたいだが、それは今度でいいか。これだけでも性能としては十分だ。もしもの保険にはなる。
「……上手くいったの?」
「ああ、これで何かあった時の備えがマシになった」
「……そう、じゃあ、これでスバルは安心?」
「んっ、それはどうだろうな。世の中何が起きるかわからないし、まだまだ、できることはあるし、やらなきゃいけないこともあるからな」
サクラの問いに俺は苦笑して答える。元の世界と比べて格段に危険が多い以上、生半可なことじゃ安心なんてできやしない。
「……すごい魔法が使えて、すごい武器も作れて、ケガも簡単に治せるのに、スバルはまだ何かが怖いの?」
「怖いさ。俺なんて、大したことない。まだまだだよ」
疑問を浮かべる視線が俺を見つめる。日本みたいな安心で安全な国で暮らしたことがなければ、俺の怯えは理解できないのかもしれないな。いくら強くて、なんでもできたところで死なないわけじゃない。それはケガを瞬時に直せたところで変わらない。死ぬときは死ぬのだ。
「……私ね、昔、犬が怖かったんだ。噛まれそうで、いつもビクビクしていた」
突然脈絡のない話をサクラが始めた。よくわからないが、とりあえず黙って聞いていることにしよう。
「そしたらね、父様に言われたの。『大丈夫だよ、この子は決して噛まないから、撫でてご覧』って。でね、頭を撫でたら、尻尾を振って嬉しそうにしてくれたの。……スバル、その時の私に似ている」
「似ている、俺が?」
「……うん、何にかはわからないけど、私と同じで触れる前から怖がっているような、そんな風に見える」
この世界を怖がっているように見える。俺はサクラの言葉がそう聞こえた。
多くの人が街を歩いていた。老若男女様々で、中にはトカゲのような人間や向こうの世界で言うところの狼男を思わせる者もいる。
通りを賑わせている露店では、見たことのない果物や、聞いたこともない名前をした動物の肉が串焼きにされ売られていた。
向こうの世界ではまずお目にかかることのできなかった光景に、俺の視線は定まらない。どこにでも未知は溢れていて、見飽きたとしてもすぐに別の新しい興味が顔を出す。
腹も減ってきたし視覚だけじゃなく味覚も楽しむのもいいかと思い、露店で軽食を買うため串焼き肉を売っている店に寄る。少し焦げた肉の匂いと油が爆ぜる音に、食欲が刺激され口内につばが溜まる。
「おっちゃん、串焼き、一つ、いや、二つ頼むわ」
「あいよ!」
威勢のいい掛け声と共に背の低い髭面のオヤジさんが笑顔で、串焼きを二つ俺に差し出す。手を伸ばしそれを掴もうとする。
けれど、串に触れた瞬間、砂のように崩れさっていた。
突然のことに驚くが、異変はそれだけでは終わらない。つい先ほどまで威勢の良かったオヤジさんまで、体が崩れていった。
慌てて辺を見ると、周りにある全ての物が音を立てずに消えてゆく。
気づくと目の前には、何もなかった。ただただ空虚で、真っ白な空間だけが広がっていた。
「……スバル」
俺は泣きそうになりながら立ち尽くしていると、見知った声が聞こえたので勢い良く振り返った。
そこにはサクラがいた。いつものようにあまり感情をのぞかせない、けれど、決して不機嫌ではない、そんな表情で俺を見つめていた。
「……どうしたの、スバル? 何か、驚いているみたいだけど」
「いや、ちょっと、怖いことがあってな」
「……怖いこと?
「ああ。何でか知らないが、俺が触れようと手を伸ばしたら、何故か砂みたくなって消えたんだ」
言って気づく、サクラがそうならない保証がどこにもないと。不安で数瞬、サクラを見つめていたが先程のように崩れていくことはなかった。
安心してため息を吐くと、思いの外大きいものがこぼれて自分の不安の重さに苦笑が出た。
「――何でまた、手を伸ばしただけであんなことが起きたんだろうな」
「……わからないの?」
「わかんねぇよ、理由なんて!」
吐き出すように言った言葉は不条理に対する怒りがこもっていたせいか、口調が強いものになっていた。八つ当たりになってしまったかと思いサクラを見るが、自分に対してないじゃないとわかっているのか表情に変化はなかった。
ただ、冷たい輝きを放つ氷細工のような瞳で俺を見つめ、小さく口を開いた。
「…………ってるから」
「えっ?」
最初の方が聞こえず疑問の声を上げると、俺を見据えたまま再度サクラは言葉を発した。
「この世界を怖がっているからでしょう」
声は小さく、けれど明瞭で、どこか硬い響きを持っていた。何もない世界で振り続ける雪はこんな音色なんじゃないかと、場違いながらふと思った。
「この世界になじめないのでしょう。この世界をおかしいと思っているのでしょう。向こうの世界にない魔法が楽しい、向こうの世界にいない異種族が珍しい。違うでしょう。向こうの世界にない魔法は奇妙で、向こうの世界にいない異種族は気持ち悪いんでしょう」
「違う! そんなこと――」
思ってもいない。そう口にするつもりだった。けれど、なぜか声は出なかった。言葉のかわりに吐息だけがもれていく。
「声が出ないんでしょう。言葉が形にならないんでしょう。それはね、それが答えだからよ。心の奥底であなたが思っているからよ」
違う。少なくとも俺はサクラをそんな風には――。
「……スバル、私のこと気持ち悪い?」
さっきまでの饒舌なサクラはどこにいったのか、今目の前にいるのは捨てられることに怯える子犬のように震える小さいな少女だった。
俺は手を伸ばす。大丈夫だと、そんなことはないと告げ、その証拠に頭をなでるために。しかし、そんな思いが形になることはなかった。
サクラは崩れていった。砂のように、雪のように、最初から何もなかったかのように。
「アアアァァァァアア!」
気づくと俺は寝室で叫び声を上げていた。――先程までの光景が夢だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
大人が三人も入れば息が詰まるような広さの部屋に、ベッドとタンスといった必要最低限の物が置いてある。この飾り気のなさは、まさしく俺の部屋だ。
「……夢か」
ひどい夢だった。そのくせ、変にリアルで痛いところをついてきやがる。
「――夢は夢、それ以上でもそれ以下でもない、よな」
空の両手を見る。何も掴めなかった手のひらには、月明かりでもわかるほどはっきりとした汗が浮かんでいた。
「どこまでが誇張で、どこまでが本当だったのかね」
全てが本音だったわけではないと思う。けれど、どこかにはあった。手を伸ばせば届くすぐそばには、佇んでいたのではないだろうか。
ただ、だから、どうしたという気持ちもないわけではない。
こちらに来て一週間経った。それは現実が見えるにはちょうどいい頃合だ。この世界に来たことに、後悔も不満もない。けれど、あの世界をなかったことにできない。
漫画の続きがどうなってるか気になる。ネットで動画や掲示板を見たい。カップラーメンを飽きるほど食べたい。どれもが容易くできていた。それが今は果てなく遠い。どうあがいても届かぬほどに。
感傷的になんて、嫌でもなってしまうだろう。普通に生きて、普通に死んだんだ。未練も何もかもが消え入らず、心のあちこちに埃のようにたまっている。それが今回爆発しただけの話だ。気に病むほどことでもない。どこにだってある、大人の弱さだ。そう開き直れるくらいには、挫折をしてきた。
「……落ち込めるほど、青くもないんだよな」
気にしないでいられるほど強くもないが、悲劇に打ちひしがれる漫画の主人公みたいな自分に、酔えるほどでもない。
そんな風に独白気味に自嘲していると、ドアをノックする音が聞こえた。
「……スバル、起きている?」
「――ああ、入っていいぞ」
耳に届いたサクラの声に返事をすると、おそるおそるといった調子でサクラが入室してきた。。
青色のパジャマ姿のサクラは、いつもより幼く見え、そのせいかおかげか、常が大人びている分歳相応に映った。
「どうした、眠れないのか?」
俺の問いにサクラは首を横に降る。
どこか話をしたそうに見えたので、起き上がりイス変わりにベッドに腰掛けるとその隣を手で何度か叩き、座るように指示した。
すぐにサクラはやって来て、隣に座る。埃が月の光を浴びて静かに舞った。
「で、どうした、何かあったのか? もしかして、怖い夢でも見たのか?」
俺がこっちに来て一週間なら、サクラも両親が亡くなって一週間だ。俺と同じように緊張の糸が切れて、両親の夢を見たとしてもおかしくない。
「……ううん、違う、私は大丈夫」
俺の予想はあっさりと外れた。はて、それではなぜここにいるのだろう。
「……スバルは大丈夫? 何か哀しいことがあったんじゃないの? さっき、泣いていたでしょう」
「――バレていたのか」
意外だった。顔も洗ったから、気づかれることはないと思っていた。
「俺の目、赤かったりしたか?」
「……ううん、そんなことない」
「じゃあ、どうして、気づいたんだ?」
「……わかるに決まっている。だって私も同じだから」
何が同じなのかは、サクラは言わなかった。俺も聞かなかった。
この世界で、たった一人だから。ただ、そんな声が耳に届いた気がした。
両親が死んでまだ一週間、哀しくない訳がない。泣かない訳がないよな。
「――そっか。そうだよな。ゴメンナ、何にも気づいてやれなくて」
「……謝る必要はない。スバルが頑張ってくれていたのは知っている。それに、――寂しくはなかった」
「そうか」
そう言って、俺は微笑み、サクラの頭を撫でた。絹を思わせるやわらかい感触がが伝わってくる。
サクラは猫のように目を細めている。表情は変わっていないが気持ちいいのかもしれないな。
寂しくは、ないか。そうだよな。どうやったて、抑えきれないものはあるし、埋められないものはある。俺の望郷の念だって似たようなものか。でもだからって、どうにもならないわけじゃない。いくらだって、ごまかす手段はある。いつだって、ほかの気持ちで救われることもある。
「……夜に突然目が覚めたり、朝起きたら泣いていたり、しばらくそういうことはあると思う。辛くないわけじゃないけど、それでいいと思う。だってそれは、それだけ、父様と母様が私の中で大切だったってことだから」
サクラは両手を胸に当て、目を閉じる。それは雛鳥を抱きしめるようだった。壊れぬよう細心の注意を払うような、そのぬくもりのあたたかさを確かめるような、そんなしぐさだった。
「……スバルも抱きしめればいいんだと思う。スバルの中にある大事なものを」
「俺の、大事なもの」
「……うん、それが何かは、私にはわからないけど」
「――俺の大事なものね」
それがないから、俺はまだこの世界に根を下ろせないのだろうか。
自分に問いかけてみたところで、答えなんてものは返ってくることはなかった。