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第25話 無機質な防壁と、母の涙

1.感情を排除した世界


都市にそびえる大手SIerのオフィスタワー。

白石が手配してくれていたビジターパスを胸に下げ、明日美は静かにフロアを歩いていた。


ガラス張りの無機質な空間。キーボードを叩く乾いた音と、サーバーの冷却音が一定のリズムで響いている。すれ違う人々は皆、効率化された歯車のように無駄のない動きで歩き、彼らの表情からは極力「個人的な感情」が排除されているように見えた。


(……息が詰まりそう)


明日美は、Ego Cube『母なる海』の知覚領域を少しだけ閉じた。

この空間には、悲しみや怒りといった明確なノイズすらない。あるのはただ、「システムを正常に稼働させる」という冷徹な目的だけ。人間らしさの揺らぎを『バグ』として徹底的に排除する、凍りついたような静寂だった。


フロアの最奥、ひときわ大きなモニター群に囲まれたプロジェクトリーダー席に、その人はいた。


深海澪シンカイ ミオ

ダークグレーのタイトなパンツスーツに身を包み、鋭い視線で画面のコードを追っている。かつて深海家の屋敷で見た、思い詰めたような儚い面影はない。廃病院の地下で凪を救うために見せた、あの狂気じみた母親の顔でもない。

そこにいるのは、完璧な論理でシステムを支配する、冷徹なシニアエンジニアだった。


「……そこのモジュール、変数の定義が甘いわ。これではトラフィックが集中した時にオーバーフローを起こす。すぐに書き直して」


部下に的確な指示を飛ばすその声は、ひどく冷たく、乾いていた。


「……お母様」


明日美が絞り出すように声をかけると、タイピングの手がピタリと止まった。

澪がゆっくりと振り返る。

その瞳が明日美を捉えた瞬間、完璧なエンジニアの仮面の下で、激しい動揺が走るのを明日美は見逃さなかった。


「……明日美。どうして、あなたがここに」

澪の声は低く、周囲の視線を気にするように周囲を一瞥してから、立ち上がった。


「……会議室へ行きましょう」



2.バグとしての罪悪感


案内されたのは、防音ガラスで仕切られた無機質なミーティングルームだった。

二人の間には、冷たいアクリル板のテーブルが横たわっている。


「NEO-GAEAの白石社長から、非公式の技術協力のオファーが来ていることは知っているわ。Gaeaのベースシステムに接続するための、大規模な分散型アーキテクチャの構築……」


澪は、テーブルに置かれたタブレットPCを見つめたまま、淡々と口を開いた。


「でも、お断りするわ。私はもう、深海一族のシステムには関わらない。……廃病院で凪の心が戻ったのを見届けた時、私はあの世界から抜け出す決意をしたの」


「お母様」

明日美は、澪の言葉を遮るように静かに呼んだ。


「技術の話をしに来たのではありません。……私は、あなたに会いに来たの」


澪の肩が、微かにビクンと震えた。


「私には、あなたに母親として会う資格なんてないわ」

澪は、かたくなに明日美と目を合わせようとしない。


「私は、あなたを置いて屋敷を出た。あなたが生きていると知らずに……いいえ、知った後も、自分が凪を救うために犯した罪の重さに耐えきれず、結局あなたたちから逃げ出した。……私は最低の母親よ」


澪の周囲に、彼女のEgo Cubeの波形が薄っすらと視覚化される。

それは、分厚い氷の壁だった。

罪悪感という強烈なノイズに心が押し潰されないよう、彼女は自らを冷たいシステムの世界に隔離し、感情の波を強制的に凍結させているのだ。


「システムはいいわ。嘘をつかないし、入力した通りにしか動かない。……人間みたいに、すれ違ったり、期待を裏切って心を壊したりしない。……私はもう、誰かの人生を狂わせたくないのよ」


「……逃げているのね」

明日美の言葉に、澪がハッと顔を上げた。


「お母様は、私やお兄様を傷つけた自分自身を、許せないだけ。……だから、自分に罰を与えるみたいに、こんな冷たい場所に閉じこもっているのね」



3.海と氷の融解


「……あなたに何が分かるの!」

澪が、初めて感情を露わにして声を荒げた。


「あの屋敷で、真澄があなたを『死んだ』と言い放った時の私の絶望が!凪の心が少しずつ壊れていくのを見るしかなかった私の無力感が!……私は、自分が壊れてしまう前に、何もかも捨てて逃げるしかなかったのよ!」


澪の目から、せき止められていた涙が溢れ出した。

氷の壁が軋みを上げ、その奥に封じ込められていた、不器用で、痛ましいほどの「家族への愛」と「後悔」が、濁流となって吹き出してくる。


(……ああ。お母様も、ずっと一人で泣いていたんだ)


明日美は、テーブルを回り込み、澪のそばに立った。

そして、顔を覆って泣き崩れる澪の肩を、そっと抱きしめた。


「……明日美……?」


「わかるわ、お母様。……私もずっと、一人で泣いていたもの」

明日美のEgo Cube『母なる海』が、静かに、そして力強く青い波紋を広げた。


「私はずっと、自分は愛されていない、空っぽの子供なんだって思ってた。誰にも必要とされないのが怖くて、必死に笑って、仮面を被って生きてきた」


明日美の言葉と揺らぎが、澪の冷たい氷を優しく溶かしていく。


「でもね、私は出会えたの。私の弱さも、醜い感情も、全部受け止めてくれる人に。……彼が私に『ここにいていいんだ』って教えてくれたから、私は今、こうしてお母様に向き合うことができている」


明日美は、澪の手を両手で包み込んだ。

システムエンジニアとして酷使されてきた、冷たくて細い手。


「お母様。あなたは、不器用で、間違えてばかりの、最低な母親かもしれない。……でも、私とお兄様を想って、必死にもがいてくれたことは知っているわ。だから……もう、自分を責めないで」


「明日美……っ、あぁ、明日美……ごめんなさい……っ!」


澪は、ついに明日美の胸にすがりつき、声を上げて泣き崩れた。

ずっと誰かに許されたかった。でも、誰よりも自分が自分を許せなかった。

その頑なな呪縛を、娘の温かい『海』が、すべて洗い流していく。


「AI歌姫ASUMIのプロジェクトには、お母様の力が必要なの」

明日美は、泣きじゃくる澪の背中を撫でながら、優しく囁いた。


「システムを構築するためだけじゃないわ。……世界中の悲しみを受容する歌を歌うためには、私自身が、一番の悲しみと向き合って、それを許さなきゃいけなかった。……お母様、私と一緒に、あの歌を完成させて」


澪は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も、何度も強く頷いた。



4.太陽の待つ場所へ


ビルのエントランスを抜けると、外は抜けるような青空だった。

心地よい初夏の風が、明日美の髪を揺らす。


「……終わったの?」

少し離れた街路樹の下で、壁に背を預けて待っていた太陽が、歩み寄ってきた。

彼の顔を見た瞬間、明日美の心に張り詰めていた最後の緊張が解け、思わずその場にへたり込みそうになった。


「っ……」


「おっと」


太陽の逞しい腕が、倒れそうになった明日美の腰をしっかりと抱き止める。

彼の『重力』に触れた途端、明日美は自分がどれほど無理をして、魂を削って母と向き合っていたのかを自覚した。


「……太陽さん。私、ちゃんと……お母様を許せたわ」

明日美は、太陽の広い胸に顔を埋め、安堵の涙を零した。


「よく頑張ったね。……君の海は、本当に美しくて、広い」

太陽は、周囲の目も気にせず、明日美の髪に深くキスをした。彼から伝わる熱が、明日美の冷えた指先を瞬時に温めていく。


「お母様のチームが、プロジェクトに合流してくれるって。……Gaeaのベースシステムとの接続は、お母様に任せればもう大丈夫よ」


「ああ。これでついに、Gaeaの出力装置(ASUMI)が、世界に繋がるインフラを手に入れたわけだ」

太陽は、明日美の顔を覗き込み、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「でも、一番の収穫は、君が過去の呪縛から完全に解放されたことだ。……今夜は、君の『海』がどんな新しい波形を描くのか、朝までじっくり確かめさせてもらわないとな」


その甘く低い声に、明日美は頬を赤く染め、ふるふると首を横に振った。

「もう……。こんなところで……変なこと言わないで」


口ではそう言いながらも、明日美の身体はすでに、彼の熱を求めて芯から甘く疼き始めていた。


帰りのタクシーの中で、明日美は太陽の肩に寄りかかりながら、タブレットPCを開いた。

母との再会。氷を溶かした涙。そして、許すことで得られた、絶対的な自由。

この感情を、ASUMIに歌わせるための新しい歌詞(Spell)として刻み込む。


――凍りついた時計の針が、今、ゆっくりと動き出す。

――許されない罪などないと、あなたが教えてくれたから。

――冷たいシステムの中で震えていた、その不器用な手を。

――私がすべて、温かい海へ連れ帰る。


(これで、感情のベースとなる主要なプロンプトは揃った……)


明日美はそっと目を閉じた。

次はいよいよ、白石のインフラと母・澪のアーキテクチャ設計によって、ASUMIの歌声を世界中の「新世代Ego Cube」にインストールする実証実験が始まる。


出力装置が稼働した時、世界に溢れるノイズはどう変化するのか。

そして、深淵で不気味に時を刻む「クロノス・コア」は、それにどう反応するのか。


物語は、個人の救済から、世界規模の「共鳴」へと、そのフェーズを大きく移行させようとしていた。

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