第9話 匂いの道と、先客
金貨は革袋の底で沈んでいた。
銀貨みたいに軽く鳴かない。掌に乗せたときの冷たさと重さだけが、まだ指先に残っている気がする。
ハルは町へ入る前に、袋の口を二重に縛り直した。
金貨を持っている顔は、どうしたって出る。出したくない時ほど出る。だから先に縛る。結び目を締めるうちに、指の震えが引いた。
ギルドの札は胸の内側。工房の印札も同じ場所に入れる。
どちらも護符みたいなものだ。頼りたくないが、頼らなければ踏みつぶされる。そういう場に、自分は立っている。
市場は朝からうるさい。
肉の匂い、魚の匂い、焼いたパンの匂い。腹が鳴るのを無視して、ハルは道具屋へ入った。
「小刀。解体用。刃が厚めで、握りが滑りにくいのを」
店主が目だけでハルを量る。
昨日までなら、ここで一歩引いていた。引けば値が上がる。今日は引かない。
「銅貨三十。鞘付きでだ」
「銅貨二十で」
「……ふん。二十五だ。これ以上は無理だ」
ハルは黙って銅貨を出した。
負けた気もするが、悪くない。柄を握った瞬間、手に馴染む。親父の小刀とは違う。だが刃が素直だ。これなら、次は滑らない。
塩を少し、拭き布を数枚、縄も追加。
火打ち石は新しいのに替える。旅に出るなら、夜の火がないと詰む。
最後に革袋の底の金貨へ指を伸ばしかけて、やめた。
今日は切らない。金貨は「ここぞ」の札だ。むやみに崩せるほど、身軽な立場じゃない。
家へ戻ると、軒下の塩漬け肉の包みが冷え切っていた。
布を開けると、塩が馴染んで赤身が締まっている。まだ薄暗い朝なのに、腹の鳴りが少し遠のいた。
そのまま干し場の縄に、二、三枚だけ掛ける。
風に揺れる肉は、貧しい家にしては贅沢に見えた。贅沢に見えるのが、少し悔しい。
「……行くか」
扉を閉め、切れ間へ向かう。
ガルムは木陰にいた。
相変わらず近くへは寄らない。だがこちらが来たのは分かっている。鼻先がわずかに動いた。
ハルは金の筒を取り出した。親父の形見。
封は、まだきれいに開けられない。教わった通り、力任せにやると噛む。噛めば嫌な音がする。あの音を立てたら、戻らない気がして怖い。
「……開け方、もう一回」
『焦るな。
指を立てるな。手の腹で回せ。息を止めるな』
言われた通り、掌で筒を包む。息を吐いて肩を落とす。
封の縁に親指を当て、そっと回す。刃物で削りたい衝動を飲み込む。
小さく、かすかな鳴きがした。
封が一歩だけ緩む。筒の中から、あの匂いがふわりと立ち上がった。
森の匂いに混じらない。金属でも土でもない。
薄い甘さ。乾いた光。鼻の奥が一瞬だけ熱くなる匂い。
匂いは筋になって、森の外へ伸びていた。昨日より太い。
一本の糸じゃない。何本かが寄り合って、道みたいに見える。
ハルは息を飲んだ。
「……外だな」
『外だ。
しかも、近い。日が落ちる前には着く』
近い、と言われただけで胸がざわつく。
稼ぎが早いなら、面倒も早い。全部が早い。そこまで頭が追いついてしまうのが嫌だった。
「行く」
『よい。
だが覚えておけ。匂いが濃い所には、人も寄る』
「分かってる」
言いながら、分かっていない自分もいる。
けれど今は、足を止める理由がない。
匂いの筋をたどると、森の縁へ出た。
木々が途切れ、斜面が始まる。見上げると山が近い。空が広く、風が冷たい。
道は獣道に近かった。
踏み固められているのに、人の足跡は少ない。靴が小石を鳴らすたび、胸の奥が縮む。
ガルムは黙って先を行く。
時折立ち止まって風を嗅ぐ。そのたび背の毛がわずかに揺れた。千年生きた獣が慎重になる場所――それだけで安全ではないと分かる。
斜面を越えた先に、岩肌が見えた。
古い崩れ跡のように裂けた壁。黒い穴。採掘口にも見えるが、道具の残骸はない。人が捨てた場所ではなく、最初から避けられてきた場所――そんな空気だ。
そして、光。
岩の割れ目に、薄い光が点々と残っている。
樹脂の艶じゃない。蜜の固まりでもない。もっと乾いて、もっと硬い――鱗みたいな欠片が、石に貼りついている。
ハルは息を止めた。
目で追うだけなら、見落とす。だが、金の筒の匂いが、そこへ細く絡んでいた。
「……これ、何だ」
ガルムが、穴の口から視線を外さずに言った。
『樹のものではない。石の腹のものだ。
……拾え。いまは誰にも見せるな』
声は低く、短い。命令に近い。
ハルは頷くしかなかった。
ガルムの視線が、岩穴の奥へ向く。
『先客がいる』
ハルは息を止めた。
耳を澄ますと、金属が擦れる音がする。小声。足音。人の気配。
ーー冒険者風の三人組だ。
「よし、こっちは樹脂が残ってる。欠かすなよ」
「へいへい。薄く剥がして、布で包め。雑にやると値が落ちる」
三人の目は、あくまで樹のほう――夜光樹脂の採れる低木の列に向いている。
鉤と木べらで、慣れた手つきで剥がしては包み、袋へ落としていく。あいつらの狙いは最初からそれだけだ。
ハルは岩陰に膝をつき、背を丸めた。
樹脂の採取の手元に紛れるように、指先だけを岩へ伸ばす。
鱗のような欠片は薄い。爪の先ほど。指で摘まむと、紙みたいに軽いくせに、妙に冷たい。
布の端にそっと受け、包み、リュックの奥――いちばん底へ滑り込ませる。
光はすぐ消えた。昼の目には、ただの鈍い石片にしか見えない。
(……あいつらに、拾ったのは、気づかれてない)
胸の内側で、硬い音がした気がした。
音は鳴っていないのに、そう感じるほど、緊張が残る。
ガルムが、わずかに鼻先を動かした。
『よい。だが、工房の買い付け口に流すな。まだ早い』
岩陰から、三人が出てきた。
軽装の鎧。冒険者だろう。背負い袋が膨らんでいる。手には小さな鉤と木べら。樹脂を欠かさず取るための道具だ。
一番前の男がハルを見て、眉を上げた。
「……商人か? こんな所に何の用だ」
後ろの女が笑う。笑い方は軽い。
軽いが、目は笑っていない。奪うより先に、値を測る目だ。
ハルは一歩引きそうになって、踏みとどまる。
頭の隅で親父の声が動いた。相手を見ろ。立ち方、目、手の癖。焦るな。
前の男は、喧嘩腰ではない。
だが譲る気もない。荷袋が膨らんでいる時点で、もう取っている。
「用があって来た。……夜光樹脂、ここで取れるとは聞いていなかった」
「そりゃそうだ。誰も教えねえ」
ハルは胸の内側の札に触れた。
出すか迷う。出したら目立つ。出さなければ舐められる。どちらも面倒だ。
ハルが胸の内側の札に触れかけた、その時。
背後の空気が変わった。
ガルムが、岩陰から半歩だけ姿を見せた。
銀の毛並みが光を吸って、体の輪郭だけがはっきりする。肩の高さが人の胸を越え、顎の影が地面に落ちた。
――狼の形をした、山の塊。
三人の反応は、言葉より先だった。
前の男の呼吸が一度止まり、喉が鳴る。女の笑いが途中で切れ、口の端が固まった。若い男は半歩下がり、そのまま足が動かなくなる。
「……冗談だろ」
前の男が唇だけ動かす。声はかすれた。
女が目だけでハルを見る。責めるでもなく、確かめるでもなく――ただ、状況を飲み込もうとしている目。
若い男は剣へ手を伸ばしかけた。
だが鞘に触れたところで止まる。抜けば終わる、と体が先に知っている顔だった。
ガルムの目が三人をなぞり、こちらへ戻る。
鼻先がわずかに動く。匂いを嗅ぐだけの動きなのに、空気がさらに冷える。
『邪魔をするな』
声は低い。怒鳴っていないのに腹の底へ落ちた。
『近づけば潰す』
前の男は息を吐いた。吐く、というより、ようやく息が出た。
肩の力を抜くふりをして、指先だけが落ち着かない。女も同じだ。笑う代わりに口角だけを上げ、目を逸らさずに耐えている。
――ここで揉めたら終わる。
三人とも、それが分かっている。分かっているからこそ、平静を作る。
前の男が、声の調子を無理に整えた。
「……あんた、それを“連れてる”のか」
「連れてるってほどじゃない。……たまたま、だ」
ハルの声も固い。余裕なんてない。
ただ、ここで弱く見えたら、話がこじれる。
前の男は視線を樹脂へ落としてから、もう一度ハルを見る。
ガルムを見ない。見たら腰が抜けるからだ。
見ないまま、商売の顔だけを貼り付ける。
「……分かった。俺らは喧嘩をしに来たんじゃねえ」
女が喉を鳴らして、短く言った。
「仕事の話なら、する」
若い男はまだ青い顔のまま、黙って頷いた。頷くしかない。
ハルはそこで、言葉を選ぶ。
押せば潰れる。引けば舐められる。だから、商人の形にする。
「じゃあ取引にする。お前らが取った分、俺がここで買う。
工房へ卸す口がある。抱えて戻るより早いし、現金で払う」
前の男の目がわずかに動く。
恐怖の上に、計算が乗った目だ。商売の目に戻っていく。
「売れ?」
「……いくらだ」
ハルは、すぐには答えなかった。
一拍だけ置いて、三人の顔を順に見る。
視線が落ち着かない。さっきまでの余裕が残っていない。
「先に言う。ここで揉め事はしない。」
前の男が短く頷く。女も唾を飲み込む。
若い男はまだ剣に触れないまま、肩だけが上下していた。
「値は二つだ。上物と欠け。分けて出せ。混ぜたら買わない」
「……細けえな」
女が言いかけて、すぐ黙った。
言い返せる空気じゃない。ガルムは動かないのに、そこにいるだけで黙らせる。
ハルは声の調子を変えない。
「細かいから金になる。工房はそういう所を見る。俺は口を作ってる。だから、ここで選別する」
前の男が舌打ちを飲み込み、袋に手を伸ばした。
「で、値は」
「上物は、塊一つにつき銀貨二枚。形が良ければ二枚半。
欠けは束で銀貨一枚。湿りと泥が多いのは半分だ。ここで拭けるなら上にする」
三人の目が揃って動く。
安い、とは言いきれない。思ったよりは出る。そういう顔だ。
前の男が探るように言った。
「もっと出せるだろ。口があるならな」
「出せる。だが出さない」
ハルは言い切ってから、少しだけ息を吐いた。
「俺が工房へ運ぶ。俺の札を使う。俺が値を揉めないように口を整える。
それに――」
言葉を切って、ガルムを見ないまま、そこにいるものを背で示す。
「ここで余計な音を立てない代金も入ってる」
前の男が鼻から息を抜いた。笑いではない。降参の息だ。
「……分かった。現金で払えるんだな」
「払う。今ここで。金は出す。だが条件は守れ」
女がようやく口を開いた。
「じゃあ、場所の話は?」
「採取場については聞かない。言わない。――互いにな」
その一言で、三人の緊張が少しだけほどけた。
ルールが見えたからだ。ルールがあれば、恐怖は少し薄れる。
ハルは小さく頷く。
「出せ。上物から見る」
交渉は、そこで一度形になった。
その瞬間、岩穴の奥で石が落ちる音がした。
続いて低い唸り声。
人の喉じゃない。獣の喉でもない。腹の底に残る、嫌な音。
三人の顔色が変わる。
「……出たな」
前の男が小さく吐き捨てた。
匂いの筋は、ここで終わっていない。
むしろ岩穴の奥へ、太く伸びている。
ガルムが暗い穴を見たまま言った。
『金は、簡単には拾わせぬ……ということだ』
ハルは小刀の柄を握り直した。
指先が冷たい。息が浅い。だが、逃げる気はなかった。
金貨の匂いが、穴の奥からしていた。
■三人組の正体(おすすめ設定)
冒険者ギルド所属の「採取屋(素材採取専門)」
戦うより 採って売るのが仕事。鉤・木べらは“欠かさず剥がす”ための採取道具。
ランクは中〜下(D〜Cあたり)。大物討伐は無理、でも採取の鼻は利く。
彼らは「夜光樹脂の塊(分かりやすい稼ぎ)」を狙って来た。




