第8話 納入札と、取り残した値打ち
家に戻ると、門の内側――軒下の影に置いた肉の包みは、そのまま残っていた。
上に板を一枚かぶせて、端に石を乗せておいたのが効いたらしい。犬も鳥も手を出していない。
まず鍋に湯を沸かし、赤身をひと切れだけ落とす。塩をひとつまみ。
脂の匂いが立った瞬間、肩の奥のこわばりがほどけていく。腹が満たされると、世界が少しだけ優しく見えるのが腹立たしい。
食べ終えると、すぐに手を動かした。
包みを開ける。昨夜の冷えで体温は抜けているが、芯まで冷える前に塩を当てた方がいい。
薄く切る。
肉に塩を擦り込み、布で包んで棚へ上げる。少しは干し肉に回せるだろう。煙を上げるほどの燻しはまだ無理だ。匂いが立てば、寄ってくるのは獣だけじゃない。
革袋の銀貨を確かめる。十七枚。
増えた。増えたのに、胸の奥が落ち着かない。増えたからこそ、次が欲しくなる。
「……金貨が欲しい」
声に出すと、少し笑えた。
旅に出るなら金が要る。銀貨をじゃらつかせて歩けば目を付けられる。守りの薄い商人が金を持てば、ろくなことにならない。
だから、まず旅に出られる形を作る。
冒険者ギルドの“納入札”。
記録が残れば、いちいち揉めなくて済む。
ハルは札と印札を胸にしまい、家を出た。
冒険者ギルドは朝から騒がしい。
扉を押すと、酒と汗と鉄の匂いが混ざって流れてくる。
場違いだと思っても、背中の荷はもうない。今日は札を作りに来ただけだ。
受付の男は、昨日と同じ顔で座っていた。
ハルを見るなり眉を寄せる。
「……今度は何だ」
「納入札を作りたい。素材は持ってきてない」
男は机の下から木札を出し、ことんと置いた。
表にギルド印、裏は空欄。紐穴が開いている。
「名前。立場。連絡先。商人なら札を見せろ」
ハルは商人ギルドの札を出し、続けて工房の印札も置いた。
男の目が一瞬だけ札に止まり、すぐに帳面へ落ちる。
「工房の口があるなら話は早い。……ただし上物は別だ。魔核みたいなものは最初は立会いだぞ」
「立会いって?」
「袋を開ける。中身を見せる。鑑定前に記録を付ける。
勝手にやられると困る。こっちも面倒を抱えたくねえ」
言い方は荒いが、筋は通っている。
密猟・盗品の可能性を考えると当然の確認だろう。
ハルは頷いた。
「分かった」
男は木札の裏に短く書き込み、紐を通して渡してきた。
「これが札だ。失くすな」
木札を手にすると、不思議と背筋が伸びた。
札一枚で強くなれるわけじゃない。それでも、門が一つ増えた感覚がある。
――と、その時。
隣の窓口で声が荒く跳ねた。
「胆嚢が足りない! 今朝の分が一つも来てないぞ!」
作業着の男が窓口に食ってかかっている。相手は事務方らしく、困った顔で手を上げていた。
作業着の男は治療院の買付役だ。
窓口の連中も、無視できない。
「今朝は持ち込みが少ないんです。魔猪自体が――」
「魔猪の胆嚢が要るんだよ。解毒だ、薬だ。治療院が待ってる。金を積むって言ってんのに、物がねえ!」
治療院。解毒。金を積む。
その言葉が、ハルの腹の奥を熱くした。
ハルは一歩だけ近づき、声を落とした。
「……胆嚢って、金になるのか」
作業着の男が振り向き、ハルを値踏みする目で見る。
鎧もない。武器も立派じゃない。なのに話しかけてきた――そういう顔だ。
「何だ、お前」
ハルは息を一つ吐いてから言った。
「昨日、魔猪を一頭。皮と牙と魔核だけ持ち込んだ。
胆嚢は……捨てた。正直、そこまで頭が回らなかった」
男は鼻で笑った。
「まあ最初はそうだ。
胆嚢は金になる。今みたいに毒傷が増えてる時期なら、治療院はすぐ買う」
「どれくらいで」
「上等なら金貨一枚。状態次第だ。
ただし時間が勝負だ。袋が破れたら終わり。汚せば値が落ちる。あと――」
男はハルを見て、少しだけ声を落とした。
「温いまま持ち込むな。新しすぎると出所を突かれる。
それに臓物は温いと中身が動いて潰れる。破れたら値どころか、悪臭でこっちが追い出される」
ハルの喉が乾いた。
金貨一枚。その音だけが頭の中で転がる。
「……まだ間に合うか?」
男は肩をすくめる。
「お前が捨てたなら、死体は森だろ。もう食われてるかもしれん。
だが残ってるなら金になる。行く気があるなら走れ」
ハルは頷き、踵を返した。
場所を口にする気はない。ここで言った瞬間、耳のいい連中が動く。
作業着の男はそれを見て、口元だけで笑った。
「持って来られたら鑑定する。それだけだ」
ハルは礼もそこそこに背を向けた。
足が勝手に速くなる。石畳を蹴る音が、やけに大きい。
人の流れを割る。肩がぶつかる。謝る暇がない。
背中に視線が刺さる気がして、首だけで振り返りそうになるのをこらえた。今ここで目を泳がせたら、“ある”と言っているのと同じだ。
路地へ入る。息が荒くなる。
喉の奥がひりつき、肺が薄い。吸っても吸っても足りない。胸が痛む。
革袋が腰で跳ね、金の筒が胸に当たって鈍く鳴った。止まりたくなる。けれど止まった瞬間、全部が遅れる。
門の外へ抜けると、土の匂いが濃くなる。
吐く息が白くほどけ、視界の端が揺れた。額の汗が冷えて、背中が粟立つ。
走りながら、頭の中で地形をなぞる。昨日捨てた場所。風向き。獣道。――間に合え。
切れ間へ戻ると、ガルムがいた。
木陰の奥。いつもの距離。
ハルは納入札を見せて言った。
まだ息が落ち着かず、喉の奥が熱い。言葉を出すたび、胸がひゅっと鳴った。
「札、作った」
『よい。形があれば、商いは太くなる』
ハルは唾を飲み込み、もう一度息を吸う。肺が痛む。
それでも、言わなきゃならない。
「それで……金貨の話が出た。魔猪の胆嚢。治療院が買うって。
昨日の死体から取れれば、金貨一枚だ」
ガルムは鼻先を僅かに動かした。驚いた様子はない。
『胆嚢か。捨てたのは、おまえらしい』
「笑うなよ」
『笑ってはおらぬ。だが拾えるなら拾え。金貨は軽くない』
ハルは頷いた。
「場所、分かるか」
ガルムは森の匂いを吸い込み、ゆっくりと首を振った。
『昨日の場所へ戻る。
残っていれば匂いが残る。残っていなければ――それまでだ』
「……行こう」
昨日の戦いの場所は、思ったより近かった。
土のえぐれ。枯れ葉の散り方。血の色。そこに“あった”痕跡が残っている。
だが、死体は半分になっていた。
腹のあたりが食い荒らされ、骨が白く見えている。鳥が数羽、距離を取って止まっていた。
ハルの喉の奥が冷える。
「……遅かったか」
ガルムが低く唸ると、鳥が一斉に飛び立った。
森がまた静かになる。
『まだ残っている。急げ。』
ハルは小刀を抜き、膝をついた。
怖さはある。だが昨日より手が動く。指が止まらない。止めたら、金貨が逃げる気がした。
腹の中は荒れていたが、胆嚢は奥に残っていた。
袋は破れていない。色もまだ濁っていない。触れれば潰れる柔らかさがある。
冬の冷気が腹の熱を奪い、腐りを一晩ぶん遅らせていた。
息を止め、刃先で周りを少しずつ離す。
一度、刃が滑りかけて心臓が跳ねた。そこで止める。息を吐く。角度を変える。
ようやく外れた。
ハルは布を広げ、胆嚢をそっと包んだ。
その上からもう一枚布を重ね、紐は強く締めすぎない。潰せば終わりだ。緩すぎても落ち着かない。ほどほどが一番難しい。
「……取れた」
『よくやった』
ガルムが褒めるのは珍しい。
それだけで背中の力が少し抜けた。
『町へ急げ。寄り道はするな。
金貨の話は口にするな。見せる相手も選べ』
「分かってる」
ハルは布包みを胸に抱え、走った。
冒険者ギルドへ戻ると、作業着の男がすぐに気づいた。
ハルが布包みを差し出すと、男は奪い取らず、指先だけで受け取った。扱いが丁寧だ。金の匂いがすると、人の手つきは変わるらしい。
「……よし。破れてない。濁りも少ない。
運がいいな。」
ハルは息を整えながら、納入札を差し出した。
「これ、今日作った。記録、付けてくれ」
「分かってる。こっちも後で揉めたくねえ」
作業着の男は札に書き込み、帳面にも記した。
それから奥へ声を飛ばす。
「治療院! 胆嚢、来たぞ!」
しばらくして、白衣に近い上着の男が現れた。
目の下が濃く、寝ていない顔をしている。忙しい人間の顔だ。
「状態は」
「いい。今朝の分としては上等だ」
治療院の男は布を少しだけ開け、匂いを確かめるように鼻を寄せる。
そして頷き、懐から小さな袋を出した。
「金貨一枚。約束通り。
――いいか、袋が欲しいんじゃない。中の胆だ。鮮いうちに抜けば薬になる。遅れると濁って、ただの臭い水だ」
ハルはその言葉を飲み込む前に、掌へ落ちた重みで理解した。
金貨は冷たく、硬く、深い音を立てた。
「……ああ」
返事が短くなる。
治療院の男はそれ以上何も言わず、すぐ背を向けた。金を渡した。材料を受け取った。次の仕事がある――そういう背中だ。
作業着の男が肩をすくめる。
「分かっただろ。
同じ獲物でも、どこを売るかで金は変わる。次からは最初に欲しい部位を聞け。胆嚢、牙、魔核、皮。全部だ」
ハルは金貨を革袋へしまい、納入札を胸へ押し込んだ。
胸の奥が熱い。嬉しい。怖い。全部混ざっている。
夕方、切れ間へ戻ると、ガルムが待っていた。
木陰の奥から、目だけがこちらを測る。
ハルは金貨を見せず、しまってから言った。
「……売れた。金貨一枚」
ガルムは鼻先を僅かに動かし、落ち着いた声で言う。
『金貨を握っている顔だ。
ようやく商いの顔になってきた』
「うるさい」
『事実だ』
ハルは笑ってしまった。
笑える。昨日まで、笑う余裕なんてなかった。
「次はもっと稼ぐ。
同じ獲物でも、売り方で変わるって分かった」
『分かったなら、次は取り残すな。
金は落ちている。拾える手を作れ。札も、刃も、頭もだ』
ハルは頷き、金の筒を取り出した。
両手で包む。息を吐いて肩を落とす。
ぬるさが走り、匂いが立つ。
昨日よりはっきりした筋が、森の外へ伸びている。
その筋は一本ではなく、少しだけ太くなっていた。まるで道みたいに。
ハルはその先を見た。
山の向こう。知らない土地。金貨の匂いがする方角。
「……行けるな」
『行ける。
だが次は小銭では済まぬ。――覚悟はしておけ』
ガルムの声は静かだった。
千年生きた獣の重さが、そこに乗っていた。
ハルは筒をしまい、革袋を握りしめた。
金貨の重みが、今夜は嬉しかった。
■生の胆嚢が薬になる理由
胆嚢そのもの(袋)ではなく、中の 胆汁必要。
胆汁には「脂を分解する力」があり、魔獣の胆汁は 毒の“油っ気”や“粘り”を溶かす
そのため毒傷の応急処置や解毒薬の材料 になる
■作業着の男=治療院の買付係(兼・仲買)




