表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/32

第7話 匂いの筋と、牙の値段

朝の空気が、昨日より少しだけ刺さった。

息を吐くと白く伸びて、すぐにほどける。森へ向かう道は冷え切っていて、靴の裏が土に貼りつくみたいに鳴る。


ハルは歩きながら胸元の印札を指で確かめた。

工房の焼き印が入った薄い金属片。冷たい。これがあるだけで、町の連中の目が変わる――そういうものらしい。まだ慣れない。


革袋の中で銀貨が小さく鳴った。

今日は稼ぐ日、と決めてきたわけじゃない。けれど、稼ぎを脇に置けるほど余裕もない。


確かめたいのは、あの匂いだ。

金の筒が一瞬だけ示した、森の外へ伸びる細い筋。あれが偶然なのか、それとも“次”なのか。


切れ間へ近づくにつれて、森の気配が変わった。

鳥の声が薄くなり、葉擦れの音も遠い。代わりに、自分の息づかいだけがやけに大きく聞こえて、ハルは無意識に肩をすくめた。


木陰がゆっくり揺れ、灰と銀の巨体が姿を見せる。

ガルム。体高だけなら、人間の背丈をあっさり越える。顎の影が、ハルの頭の上を横切って地面へ落ちた。


『来たか』


低い声が胸に響いた。

それだけで、膝の奥の力が少し戻るのが分かる。怖いのに、頼っている。情けない。


「……昨日の筋を、もう一回見たい」


ガルムは鼻先を僅かに動かした。頷いたのか、ただ匂いを嗅いだだけなのか、ハルには判別がつかない。


『よい。だが無茶はするな。おまえは森の歩き方がまだ甘い』


「歩き方、って言われても……」


『足の運び、息の使い方、音の消し方。まとめて歩き方だ』


言い切って、ガルムは先に動き出した。

巨体が進むのに、枝を折る音がほとんどしない。影が滑っていくみたいで、見ているだけで落ち着かなくなる。


ハルは後を追った。

今日は縄を多めに持ってきた。森の外へ出るかもしれない、そう考えただけで、手の中の道具が頼りになる。


いつもの採取場所より奥へ入ると、地面が湿ってくる。

土の匂いが濃くなり、木々の間の暗さも深くなる。足元の枯れ葉が、やけに音を立てる気がして、ハルは歩幅を小さくした。


ガルムが足を止めた。


『止まれ』


ハルも止まる。止まった瞬間、背中がぞくりとした。

森が静かすぎる。鳥も虫も、近くにいない。代わりに、どこかで“擦れる”音がする。硬いものが土を削っているような音だ。


「……何かいる?」


ガルムは答えない。

耳が立ち、鼻先が前を向く。毛並みが微かに逆立つのが見えた。


根元の陰から、黒い塊がぬっと現れた。

猪に似ている。だが、見たことのある猪じゃない。肩がハルの胸の高さまであり、皮膚は岩みたいに厚い。赤い目が揺れず、牙だけが白く光っている。


魔猪だ。


ハルの喉が、乾いた音を立てた。

剣の柄に手を伸ばそうとして、指が動かない。腰の奥が冷え、視界が少し狭くなる。逃げる、という考えだけが浮かぶのに、足が言うことを聞かなかった。


ガルムが一歩前へ出た。


それだけで、空気の重さが変わった。

魔獣の鼻息が止まり、赤い目がわずかに揺れる。牙の奥から、低い唸りが漏れた。


『下がれ』


短い声。だが、不思議と頭に入った。

ハルはやっと息を吸い、後ろへ下がる。足がもつれ、背中が木に当たった。樹皮の冷たさが肩に刺さる。


魔獣が突っ込んできた。

地面が跳ね、枯れ葉が舞い、牙が一直線に迫る。目の前が真っ白になる。


――次の瞬間、魔猪の体が横へ弾けるように飛んだ。


何をしたのか、分からない。

音だけが遅れて届く。骨が鳴る、湿った音。重いものが地面に落ちる音。


魔猪は木の根元へ転がり、脚をばたつかせた。だが立てない。首が変な角度で曲がっている。

ガルムは近づき、鼻先で頭を軽く押した。押されただけで、力が抜けたように動きが止まる。


「……終わった、のか」


自分の声が自分じゃないみたいに震えていた。

心臓がうるさくて、耳の奥が痛い。


『終わった』


ガルムは淡々としていた。

ハルは口を開けたまま、ようやく唾を飲み込む。


「……強すぎるだろ」


『我を何だと思っている』


腹が立つ言い方なのに、言い返す元気がない。

そもそも、今ここで言い返して何になる。


ガルムは倒れた魔猪を見下ろし、鼻をひとつ鳴らした。


『魔猪。皮は厚い。牙も良い。魔核もある。……売れる』


「売れるって、どこへ」


『冒険者ギルドだ。素材の買取と鑑定がある。依頼を受ける必要はない』


冒険者ギルド。

自分とは縁のない場所だと思っていた。けれど、今目の前に“売り物”がある以上、縁がないでは済まない。


『全部は運べぬな。必要な分だけ取れ。肉は町に持ち込むな、出所を突かれる』


「……でも、俺の飯は?」


『腹は満たせる分の肉を獲れ。だから“家”に置け』


ガルムは魔猪を木陰へ引きずり、前脚で胴を押さえた。

押さえられた死体が少し沈む。あの牙が、もし自分に向いていたら――と思って、背中に冷たい汗が走る。


ガルムは爪で皮の端を少し裂き、切れ目の“口”を作った。

それ以上はやらない。鼻先だけでこちらを促す。


『ここからだ。刃はおまえが使え』


ハルは腰の小刀を抜いた。

護身の剣とは別だ。商いの刃。親父に教わった、最低限の手ほどきが体のどこかに残っている。


皮を剥ぐ。

深く入れすぎると脂が付く。穴を開ければ値が落ちる。分かっているのに、指先が震える。息が浅くなる。

それでも、刃先だけは落ち着かせる。落ち着かせないと、ここで終わる。


牙は折らないように、骨の際を刃で追う。

折れた牙は買い叩かれる。親父がそう言っていた。

ハルは何度も息を吐き直し、慎重に切り離した。


「……魔核は」


『腹の奥だ。刃で道を作れ。臓を破るな』


言われた通り、刃先で筋を探して進める。

血の匂いが濃くなる。胃がひくりとする。それでも手を止めない。止めたら、もう二度と動けなくなる気がした。


硬い塊が指先に当たった。

拳ほどの大きさ。冷たく、ぬめりがある。掌に乗せた瞬間、ぞわりと皮膚が粟立った。


『それだ。布で包め。鑑定の場まで余計に触るな』


ハルは布で包み、革袋の奥へしまった。

次に皮だ。丸ごとは無理だ。背負って町へ入れば、門で止められて終わる。


ハルは胴の良い部分だけを選び、商いになる面積を切り出した。

悔しいが、背負える分しか持てない。森に残した分は、森のものだ。


最後に肉。

赤身を少しだけ。食い切れる分だけ。多ければ腐らせる。腐らせれば腹を壊すし、心まで折れる。


布に包み、さらにもう一枚布を巻いて縄で縛った。

血が垂れないように、匂いが漏れにくいように。自分でやっているのに、手つきが他人みたいだった。


『肉は町へ入れるな』


「分かってる。家の前に置く」


『塩があるなら漬けろ。薄く切って干せ。煙を上げすぎるな。匂いで獣も人も寄る』


その言葉は、妙に具体的だった。

ガルムが人の暮らしを見てきた、という重みがそこにあった。


『我はここまでだ。町へは行かぬ』


「……分かった」


ガルムは木陰へ戻り、影に溶けた。

巨体が消えると、残ったのは荷の重さと、自分の荒い息だけだ。


ハルはまず家へ戻った。

町へ入る前に、肉を置いてしまう。


親父が残した家は町外れにある。

壁はしっかりしているのに、暮らしぶりは貧しい。門の前の土は固く、踏み跡が少ない。ここなら、少しの荷を置いても目立ちにくい。


肉の包みは、門の外じゃなく軒下の影に押し込んだ。

夜の冷えで体温を抜き、朝に塩を当てる。犬除けに、上から板を一枚かぶせた。


「……帰ったら、塩漬けだな」


塩を惜しまず使う。今日だけは商品より腹だ。

そう言い聞かせないと、いつもの癖で自分の口を後回しにしてしまう。


素材の束は井戸水で布を濡らし、表の血を軽く拭った。

皮は丸めて縄で縛り、背負いやすい形にする。牙は布に包んで同じ束へ。魔核は革袋の奥。落としたら笑えない。


肩が痛い。けれど、痛いのは生きている証拠だと思うことにした。



冒険者ギルドは町の端にある。

商人ギルドより騒がしく、酒と汗と鉄の匂いが混ざっている。場違いだと分かっているのに、背中の荷が背中を押した。


扉を押すと、中の視線が一度こちらへ集まった。

鎧、武器、包帯。どれも自分とは別の世界の匂いがする。


受付の男が言う。


「用件は」


ハルは荷を床に下ろし、息を整えた。


「素材の買取を頼みたい。魔猪の皮――一部と、牙と、魔核だ」


男の眉がわずかに動く。荷を見る目つきが、さっきまでと違った。

次にハルの顔へ戻り、短く言った。


「冒険者か?」


「違う。商人だ」


「なら帰れ」


早い。胃が冷える。

けれど、ここで引いたら次がない。


ハルは胸元から工房の印札を出し、机の上に置いた。

焼き印が見えるように。隠さず、変にへりくだらず。


「工房の口がある。依頼は受けない。買取だけだ」


受付の男は札を見て、小さく息を吐いた。


「……工房の札か。なら解体場へ回せ。鑑定料は銅貨三枚。魔核は勝手に弄るな」


「分かった」


銅貨を出す。痛いが、揉める方が痛い。

受付から木札を受け取り、奥へ向かった。


解体場は血の匂いが濃い。

床は洗われているが、染みついた匂いは残る。桶、刃物、鉤。作業着の男たちが忙しなく動いていた。


鑑定係らしい男が荷を見て、眉を上げる。


「魔猪か。牙が折れてないな。皮も良いところを切ってる。丸ごとじゃないのは正解だ」


「背負って来たからな」


「それで十分だ。……よし、見るぞ」


男は魔核を布越しに扱い、器に移した。

軽く叩き、光を当て、しばらく無言になる。


ハルは、待つ時間が一番苦手だった。

待っている間に、頭の中で失敗が膨らむ。値切られる。疑われる。追い返される。勝手に増えていく。


やがて男が口を開いた。


「皮は銀貨三枚。牙は銀貨二枚。魔核は――銀貨十二枚」


息が止まった。

数字が大きくて、すぐには飲み込めない。


「……そんなに?」


「等級が悪くない。金貨が出るほどじゃないが、銀貨十二はつく。文句はないだろ」


「……ない」


机に銀貨が積まれる音がする。

皮と牙で五。魔核で十二。合わせて十七。革袋が重くなるのが分かる。


鑑定係は木札に記しながら言った。


「次からは納入札を作れ。持ち込みの記録が残る。そうすりゃ、出所の話が早い」


「……助かる」


「助かるなら、魔核を割るな。皮に穴を開けるな。肉を血のまま門へ持って行くな。揉める」


言われて、ハルは頷くしかなかった。

全部、自分でも薄々分かっていた。分かっているのに、やらかすのが自分だ。


夕方、切れ間へ戻ると、ガルムがいた。

木陰の奥。いつもの距離。


『売れたか』


「売れた。銀貨十七だ。魔核が……十二」


ガルムは鼻先を僅かに動かす。


『よい。腹も満たせる』


「肉は家の前に置いた。帰ったら塩漬けにする」


『それでよい。倒れてから稼いでも、何にもならぬ』


淡々とした声なのに、変に胸に残った。

ハルは視線を逸らし、革袋を握り直す。


「匂いの筋は……」


金の筒を取り出し、両手で包む。息を吐いて肩を落とす。

ぬるさが走り、匂いが立った。細い筋が、森の外へ伸びている。


ハルはその方向を見る。町の外。道の先。山の向こう。


ガルムも同じ方角に目を向けた。


『……あちらだな』


「行くのか」


『今日は行かん。荷の始末をしろ。肉を仕込んで、よく眠れ』


「……命令みたいだな」


『助言だ。聞くかどうかは、おまえ次第だ』


ガルムはそう言って木陰へ戻った。

影に溶けていく背中は大きいのに、不思議と押しつけがましくない。


ハルは筒を革袋へしまい、家へ向かった。

銀貨十七がある。肉もある。塩も買える。明日の分も作れる。


匂いの筋は、まだ外を指している。

金貨は遠い。けれど、遠いと分かっただけでも、前よりは歩けそうな気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ