第7話 匂いの筋と、牙の値段
朝の空気が、昨日より少しだけ刺さった。
息を吐くと白く伸びて、すぐにほどける。森へ向かう道は冷え切っていて、靴の裏が土に貼りつくみたいに鳴る。
ハルは歩きながら胸元の印札を指で確かめた。
工房の焼き印が入った薄い金属片。冷たい。これがあるだけで、町の連中の目が変わる――そういうものらしい。まだ慣れない。
革袋の中で銀貨が小さく鳴った。
今日は稼ぐ日、と決めてきたわけじゃない。けれど、稼ぎを脇に置けるほど余裕もない。
確かめたいのは、あの匂いだ。
金の筒が一瞬だけ示した、森の外へ伸びる細い筋。あれが偶然なのか、それとも“次”なのか。
切れ間へ近づくにつれて、森の気配が変わった。
鳥の声が薄くなり、葉擦れの音も遠い。代わりに、自分の息づかいだけがやけに大きく聞こえて、ハルは無意識に肩をすくめた。
木陰がゆっくり揺れ、灰と銀の巨体が姿を見せる。
ガルム。体高だけなら、人間の背丈をあっさり越える。顎の影が、ハルの頭の上を横切って地面へ落ちた。
『来たか』
低い声が胸に響いた。
それだけで、膝の奥の力が少し戻るのが分かる。怖いのに、頼っている。情けない。
「……昨日の筋を、もう一回見たい」
ガルムは鼻先を僅かに動かした。頷いたのか、ただ匂いを嗅いだだけなのか、ハルには判別がつかない。
『よい。だが無茶はするな。おまえは森の歩き方がまだ甘い』
「歩き方、って言われても……」
『足の運び、息の使い方、音の消し方。まとめて歩き方だ』
言い切って、ガルムは先に動き出した。
巨体が進むのに、枝を折る音がほとんどしない。影が滑っていくみたいで、見ているだけで落ち着かなくなる。
ハルは後を追った。
今日は縄を多めに持ってきた。森の外へ出るかもしれない、そう考えただけで、手の中の道具が頼りになる。
いつもの採取場所より奥へ入ると、地面が湿ってくる。
土の匂いが濃くなり、木々の間の暗さも深くなる。足元の枯れ葉が、やけに音を立てる気がして、ハルは歩幅を小さくした。
ガルムが足を止めた。
『止まれ』
ハルも止まる。止まった瞬間、背中がぞくりとした。
森が静かすぎる。鳥も虫も、近くにいない。代わりに、どこかで“擦れる”音がする。硬いものが土を削っているような音だ。
「……何かいる?」
ガルムは答えない。
耳が立ち、鼻先が前を向く。毛並みが微かに逆立つのが見えた。
根元の陰から、黒い塊がぬっと現れた。
猪に似ている。だが、見たことのある猪じゃない。肩がハルの胸の高さまであり、皮膚は岩みたいに厚い。赤い目が揺れず、牙だけが白く光っている。
魔猪だ。
ハルの喉が、乾いた音を立てた。
剣の柄に手を伸ばそうとして、指が動かない。腰の奥が冷え、視界が少し狭くなる。逃げる、という考えだけが浮かぶのに、足が言うことを聞かなかった。
ガルムが一歩前へ出た。
それだけで、空気の重さが変わった。
魔獣の鼻息が止まり、赤い目がわずかに揺れる。牙の奥から、低い唸りが漏れた。
『下がれ』
短い声。だが、不思議と頭に入った。
ハルはやっと息を吸い、後ろへ下がる。足がもつれ、背中が木に当たった。樹皮の冷たさが肩に刺さる。
魔獣が突っ込んできた。
地面が跳ね、枯れ葉が舞い、牙が一直線に迫る。目の前が真っ白になる。
――次の瞬間、魔猪の体が横へ弾けるように飛んだ。
何をしたのか、分からない。
音だけが遅れて届く。骨が鳴る、湿った音。重いものが地面に落ちる音。
魔猪は木の根元へ転がり、脚をばたつかせた。だが立てない。首が変な角度で曲がっている。
ガルムは近づき、鼻先で頭を軽く押した。押されただけで、力が抜けたように動きが止まる。
「……終わった、のか」
自分の声が自分じゃないみたいに震えていた。
心臓がうるさくて、耳の奥が痛い。
『終わった』
ガルムは淡々としていた。
ハルは口を開けたまま、ようやく唾を飲み込む。
「……強すぎるだろ」
『我を何だと思っている』
腹が立つ言い方なのに、言い返す元気がない。
そもそも、今ここで言い返して何になる。
ガルムは倒れた魔猪を見下ろし、鼻をひとつ鳴らした。
『魔猪。皮は厚い。牙も良い。魔核もある。……売れる』
「売れるって、どこへ」
『冒険者ギルドだ。素材の買取と鑑定がある。依頼を受ける必要はない』
冒険者ギルド。
自分とは縁のない場所だと思っていた。けれど、今目の前に“売り物”がある以上、縁がないでは済まない。
『全部は運べぬな。必要な分だけ取れ。肉は町に持ち込むな、出所を突かれる』
「……でも、俺の飯は?」
『腹は満たせる分の肉を獲れ。だから“家”に置け』
ガルムは魔猪を木陰へ引きずり、前脚で胴を押さえた。
押さえられた死体が少し沈む。あの牙が、もし自分に向いていたら――と思って、背中に冷たい汗が走る。
ガルムは爪で皮の端を少し裂き、切れ目の“口”を作った。
それ以上はやらない。鼻先だけでこちらを促す。
『ここからだ。刃はおまえが使え』
ハルは腰の小刀を抜いた。
護身の剣とは別だ。商いの刃。親父に教わった、最低限の手ほどきが体のどこかに残っている。
皮を剥ぐ。
深く入れすぎると脂が付く。穴を開ければ値が落ちる。分かっているのに、指先が震える。息が浅くなる。
それでも、刃先だけは落ち着かせる。落ち着かせないと、ここで終わる。
牙は折らないように、骨の際を刃で追う。
折れた牙は買い叩かれる。親父がそう言っていた。
ハルは何度も息を吐き直し、慎重に切り離した。
「……魔核は」
『腹の奥だ。刃で道を作れ。臓を破るな』
言われた通り、刃先で筋を探して進める。
血の匂いが濃くなる。胃がひくりとする。それでも手を止めない。止めたら、もう二度と動けなくなる気がした。
硬い塊が指先に当たった。
拳ほどの大きさ。冷たく、ぬめりがある。掌に乗せた瞬間、ぞわりと皮膚が粟立った。
『それだ。布で包め。鑑定の場まで余計に触るな』
ハルは布で包み、革袋の奥へしまった。
次に皮だ。丸ごとは無理だ。背負って町へ入れば、門で止められて終わる。
ハルは胴の良い部分だけを選び、商いになる面積を切り出した。
悔しいが、背負える分しか持てない。森に残した分は、森のものだ。
最後に肉。
赤身を少しだけ。食い切れる分だけ。多ければ腐らせる。腐らせれば腹を壊すし、心まで折れる。
布に包み、さらにもう一枚布を巻いて縄で縛った。
血が垂れないように、匂いが漏れにくいように。自分でやっているのに、手つきが他人みたいだった。
『肉は町へ入れるな』
「分かってる。家の前に置く」
『塩があるなら漬けろ。薄く切って干せ。煙を上げすぎるな。匂いで獣も人も寄る』
その言葉は、妙に具体的だった。
ガルムが人の暮らしを見てきた、という重みがそこにあった。
『我はここまでだ。町へは行かぬ』
「……分かった」
ガルムは木陰へ戻り、影に溶けた。
巨体が消えると、残ったのは荷の重さと、自分の荒い息だけだ。
ハルはまず家へ戻った。
町へ入る前に、肉を置いてしまう。
親父が残した家は町外れにある。
壁はしっかりしているのに、暮らしぶりは貧しい。門の前の土は固く、踏み跡が少ない。ここなら、少しの荷を置いても目立ちにくい。
肉の包みは、門の外じゃなく軒下の影に押し込んだ。
夜の冷えで体温を抜き、朝に塩を当てる。犬除けに、上から板を一枚かぶせた。
「……帰ったら、塩漬けだな」
塩を惜しまず使う。今日だけは商品より腹だ。
そう言い聞かせないと、いつもの癖で自分の口を後回しにしてしまう。
素材の束は井戸水で布を濡らし、表の血を軽く拭った。
皮は丸めて縄で縛り、背負いやすい形にする。牙は布に包んで同じ束へ。魔核は革袋の奥。落としたら笑えない。
肩が痛い。けれど、痛いのは生きている証拠だと思うことにした。
冒険者ギルドは町の端にある。
商人ギルドより騒がしく、酒と汗と鉄の匂いが混ざっている。場違いだと分かっているのに、背中の荷が背中を押した。
扉を押すと、中の視線が一度こちらへ集まった。
鎧、武器、包帯。どれも自分とは別の世界の匂いがする。
受付の男が言う。
「用件は」
ハルは荷を床に下ろし、息を整えた。
「素材の買取を頼みたい。魔猪の皮――一部と、牙と、魔核だ」
男の眉がわずかに動く。荷を見る目つきが、さっきまでと違った。
次にハルの顔へ戻り、短く言った。
「冒険者か?」
「違う。商人だ」
「なら帰れ」
早い。胃が冷える。
けれど、ここで引いたら次がない。
ハルは胸元から工房の印札を出し、机の上に置いた。
焼き印が見えるように。隠さず、変にへりくだらず。
「工房の口がある。依頼は受けない。買取だけだ」
受付の男は札を見て、小さく息を吐いた。
「……工房の札か。なら解体場へ回せ。鑑定料は銅貨三枚。魔核は勝手に弄るな」
「分かった」
銅貨を出す。痛いが、揉める方が痛い。
受付から木札を受け取り、奥へ向かった。
解体場は血の匂いが濃い。
床は洗われているが、染みついた匂いは残る。桶、刃物、鉤。作業着の男たちが忙しなく動いていた。
鑑定係らしい男が荷を見て、眉を上げる。
「魔猪か。牙が折れてないな。皮も良いところを切ってる。丸ごとじゃないのは正解だ」
「背負って来たからな」
「それで十分だ。……よし、見るぞ」
男は魔核を布越しに扱い、器に移した。
軽く叩き、光を当て、しばらく無言になる。
ハルは、待つ時間が一番苦手だった。
待っている間に、頭の中で失敗が膨らむ。値切られる。疑われる。追い返される。勝手に増えていく。
やがて男が口を開いた。
「皮は銀貨三枚。牙は銀貨二枚。魔核は――銀貨十二枚」
息が止まった。
数字が大きくて、すぐには飲み込めない。
「……そんなに?」
「等級が悪くない。金貨が出るほどじゃないが、銀貨十二はつく。文句はないだろ」
「……ない」
机に銀貨が積まれる音がする。
皮と牙で五。魔核で十二。合わせて十七。革袋が重くなるのが分かる。
鑑定係は木札に記しながら言った。
「次からは納入札を作れ。持ち込みの記録が残る。そうすりゃ、出所の話が早い」
「……助かる」
「助かるなら、魔核を割るな。皮に穴を開けるな。肉を血のまま門へ持って行くな。揉める」
言われて、ハルは頷くしかなかった。
全部、自分でも薄々分かっていた。分かっているのに、やらかすのが自分だ。
夕方、切れ間へ戻ると、ガルムがいた。
木陰の奥。いつもの距離。
『売れたか』
「売れた。銀貨十七だ。魔核が……十二」
ガルムは鼻先を僅かに動かす。
『よい。腹も満たせる』
「肉は家の前に置いた。帰ったら塩漬けにする」
『それでよい。倒れてから稼いでも、何にもならぬ』
淡々とした声なのに、変に胸に残った。
ハルは視線を逸らし、革袋を握り直す。
「匂いの筋は……」
金の筒を取り出し、両手で包む。息を吐いて肩を落とす。
ぬるさが走り、匂いが立った。細い筋が、森の外へ伸びている。
ハルはその方向を見る。町の外。道の先。山の向こう。
ガルムも同じ方角に目を向けた。
『……あちらだな』
「行くのか」
『今日は行かん。荷の始末をしろ。肉を仕込んで、よく眠れ』
「……命令みたいだな」
『助言だ。聞くかどうかは、おまえ次第だ』
ガルムはそう言って木陰へ戻った。
影に溶けていく背中は大きいのに、不思議と押しつけがましくない。
ハルは筒を革袋へしまい、家へ向かった。
銀貨十七がある。肉もある。塩も買える。明日の分も作れる。
匂いの筋は、まだ外を指している。
金貨は遠い。けれど、遠いと分かっただけでも、前よりは歩けそうな気がした。




