第6話 等級札と、匂いの筋
翌朝、ハルはまだ暗いうちに目を覚ました。
寒さで起きたのではない。腹が静かで、目だけが先に開いた。
起き上がると、昨日の工房の熱がまだ身体のどこかに残っている気がした。
火の匂い。金属の匂い。汗の匂い。――それを思い出すだけで、背筋が伸びる。伸びるのが腹立つ。
鍋に水を張り、野菜を放り込む。肉は小さく切って、塩をひとつまみ。
湯気が立ち、匂いが部屋の隅まで届く。汁をすすっただけで、指先に血が戻ってくる。
食い終わる前に、ハルは金の筒を手に取った。
朝の稽古は十回、と決めた。決めないとやらない自分を知っている。
両手で包む。息を吐く。肩を落とす。
腹の温かさを掌に落とすつもりで、押さずに流す。
――何も起きない。
二回、三回。冷たいまま。
四回目で、ほんの一瞬ぬるくなった気がした。匂いは弱い。鼻を近づけても、かすかに甘い気配がするだけだ。
「……薄い」
誰に言うでもなく呟くと、気持ちが引き締まった。
今日は匂いが薄い。けれど昨日よりは分かる。昨日より分かるなら、続ける意味はある。
十回目を終え、筒を革袋にしまう。
それからリュックに布袋を二つ、拭き布、木べら、縄。いつもの道具を詰めた。
家を出ると、空が灰色だった。
冬に近い朝の色だ。森へ向かう足音が、妙に大きく聞こえる。
切れ間へ近づくと、空気が変わった。
鳥の声が遠のき、葉擦れの音が細くなる。ハルは無意識に息を浅くしていた。
木陰が動く。
灰と銀の毛並みが、朝の光を弾かず吸い込む。顎の影が、ハルの肩まで届く距離だ。
『来たか』
ガルムの声は低い。急がない。
「……来た」
『稽古はしたか』
「十回した」
ガルムは鼻先を少し動かしただけで頷いたように見えた。
『続けよ。筒は、急かすほど閉じる』
言い切って、ガルムは森へ向き直った。
今日も余計な会話はないらしい。むしろ助かる。話していると、こちらの心臓だけが疲れる。
夜光樹脂の採取は、静かな作業になった。
針葉樹。新しめの裂け目。青い苔。黒い筋。目印が揃う木を探す。
見つけたら、木べらで縁を起こす。
割らない。焦らない。息を止めない。取れた塊は布で拭う。樹皮の粉を落とす。欠けの少ないものは上物の袋へ。欠けた小粒は別へ。
手間は増えたが、手間があるほうが落ち着く。
何をしているのか、何のためにしているのかが分かるからだ。
『よい』
ガルムが一言だけ落とした。
褒めたのではない。ただの確認だ。それでも、背中が少しだけ軽くなったのが悔しい。
午前のうちに袋がほどよく重くなったところで、ハルは切れ間へ戻った。
ガルムは木陰から動かない。
『今日は工房へ持って行け』
「……市場じゃなくて?」
『口を作ったのであろう。ならば、そちらが先だ。
無駄な値切りに時間を捨てるな』
当たり前のように言われて、ハルは舌打ちしそうになってやめた。
正しいことを言われると腹が立つ。自分がそれを知らなかったからだ。
「分かった」
ガルムの気配を背に、ハルは一人で町へ向かった。
工房街は昼前でも熱かった。
路地へ入るだけで、鉄の匂いと焦げた油の匂いが鼻に刺さる。金属を叩く音が、壁を伝って胸に響く。
裏口の扉は、昨日と同じように素っ気なくそこにあった。
ノックをすると、すぐに開いた。
出てきたのは、指先の黒い若い男だ。
「来たな。今日は早い」
「採れるうちに採っとかないと、怖い」
男が小さく笑った。
「怖いって言えるうちは大丈夫だ。入れ。親方は奥だ」
中へ入ると、炉の熱が肌を舐める。
汗の匂いが濃い。工具の列が壁に並び、床には粉が散っている。ハルの靴底がそれを踏んで、かすかに鳴った。
奥に、親方がいた。
腕を組んだまま、こちらを見る目が細い。
「……来たか。品」
「はい」
ハルはまず上物の袋を出した。
親方は袋の口を覗き、無言で一つ摘まむ。光り方、色、断面。指で転がす。鼻先を寄せる。
「澄みが揃ってきたな」
それだけで、胸の奥が少し温かくなるのが分かった。
褒め言葉じゃない。評価だ。評価は金に変わる。
親方は次に欠け物の袋へ顎を向けた。
「欠けは」
「別です」
「よし」
親方が炉の脇の小鍋を指した。昨日見た、とろりと揺れる透明な液体だ。
「上物は“薄塗り”。溝に流す。見えてなきゃ仕事にならん。
欠けは“厚塗り”。外側の保護に回す。見た目より量がいる」
「欠けでも買う理由がそれか」
「そうだ。粉が出るのは嫌だが、欠けまで全部が悪いわけじゃない。
……お前は欠けを分けてきた。だから話が早い」
親方は腕を解き、棚から木札を二枚出した。
片方には焼き印。もう片方には簡単な刻み。
「これは等級札だ。上物を“甲”、欠けを“乙”。
甲は銀貨六枚。乙は銀貨二枚。――この口で買う」
ハルは思わず札を見つめた。
札があるだけで、急に“仕事”の形になる。
「……毎回この値?」
「毎回この質なら、だ。
落ちたら落とす。上がったら上げる。――それも分かるな」
分かる。分かるけれど、怖い。
質が落ちたら終わる。稼ぎが止まる。戻る場所が無くなる。怖さは消えない。
親方は机の上の帳面を指で叩いた。
「帳面に名前を書く。
本名はいらん。呼び名でいい。札と帳面が合えば、それで売買は成立する」
「……ハルで」
親方は短く頷き、帳面に書いた。
字は硬く、迷いがない。こういう手は、金をごまかさない手だ。ごまかす必要がない手、とも言う。
若い男が横から言った。
「これで市場で揉めなくて済む。
うちの札があると、余計な連中も寄りにくい」
「余計な連中?」
「買い叩くやつとか、場所を奪うやつとか、な」
言われて、昨日ギルドで払った銀貨二枚を思い出した。
場所を少し良くするだけで金が要るのなら、狙うやつがいるのも当然だ。
親方は、上物の袋を軽く揺すりながら言った。
「……次の話をするぞ」
ハルが顔を上げると、親方は淡々と続けた。
「この辺りの森は魔力が薄い。
採れるうちは採れるが、同じ木を追えば、いずれ枯れる、出る量も落ちる」
心臓が一つ跳ねた。
怖い。けれど、そうだろうとも思う。ずっと同じ場所で同じ金が出るわけがない。
「……じゃあ、どうする」
「産地を移す。
夜光樹脂の“濃い”木は、もっと奥だ。山を越えた側にある。……ただし、そこは人が寄り付かない。情報が金になるくらいだ」
親方は机の隅から、小さな革紐を出した。
紐の先に、薄い金属片がついている。札と同じ焼き印が押されていた。
「これを持て。工房の印だ。
他所の町でも“材料持ち”として話が通りやすい。護衛を雇うときも、馬車を借りるときも、少しは楽になる」
ハルは金属片を受け取った。冷たい。
だが昨日の銀貨より、別の重みがある。立場の重みだ。
「……旅の話か」
親方は肩をすくめた。
「旅かどうかは知らん。
ただ、同じ場所で稼ぎ続けたいなら、いつか詰まる。詰まる前に動け。
動けるように金を残せ。――それだけだ」
ハルは頷いた。
怖い。けれど、怖いままでも動けるようになりたい。端で干し肉を並べるだけの自分を、終わらせたい。
親方が銀貨を机に置いた。
六枚と二枚。合計八枚。冷たい音がする。
「次は三日後でいい。
毎日来て質を落とすくらいなら、間を空けろ。……その代わり、来る日は“甲”を揃えろ」
「分かった」
親方はもうこちらを見ず、炉へ戻った。
若い男が扉まで付き添い、低い声で言った。
「親方が先の話をするのは珍しい。
……気に入られてる。でも慢心はするなよ」
「するほど余裕はない」
「それが一番だ」
外へ出ると、熱の反動で空気が冷たかった。
背中の汗がひやりとする。けれど、革袋の銀貨が鳴る音は確かで、手の中の印札の冷たさも確かだった。
夕方、切れ間へ戻ると、木陰が動いた。
ガルムがいる。いつもの距離。踏み込んでこない距離。
『工房はどう言った』
「口ができた。等級札まで出た。
……それと、この辺の森は魔力が薄いって」
ガルムは鼻先を少し動かす。
『当然だ。吸い上げられ続ければ、薄くなる』
「親方が、奥の山の向こうに濃い場所があるって言った。
工房の印も渡された。……旅の話だ」
ガルムはすぐには答えなかった。
夕方の風が葉を鳴らし、影が伸びる。その沈黙が、千年の間の一欠片みたいに重い。
『動く時が来るであろう。
だが、慌てるな。おまえはまだ“戻る場所”が要る』
ハルは頷いた。
怖いのは、今の稼ぎを捨てることだ。けれど、稼ぎが枯れるのも怖い。怖さが二つに増えただけだった。
――銀貨二枚。
場所代を払えば、残りは軽くなる。口が出来たばかりの工房も、手放したくない。上物と欠け物を分けて持ち込めば、値は安定する。今日の銀貨八枚は、たしかに腹の底を温めた。
だが、親方の言葉が頭から離れない。奥の山の向こうに、濃い場所がある。
つまり、ここは薄くなっていく。今の稼ぎも、いつか痩せる。
「……戻って来る。何度も」
ハルは自分に言い聞かせるように呟いた。
「数日、向こうで拾って、戻って、工房に流す。それなら――」
ガルムが鼻先を少し動かす。肯定とも否定ともつかない仕草。
『それでよい。口は捨てるな。口は“道”だ』
ハルは唇を噛んだ。
「毎回ここに戻って、同じ端で干し肉並べて――ってのは、もう嫌だ。あれは、もう」
言い切れずに、息を吐く。
やり方を変えたい。等級を上げて、扱うものを変える。工房印があるなら、売り先を増やせる。冒険者ギルドの納入札だって、今は一枚きりだ。あれも、増やせる。
『なら、上げろ』
ガルムの声は平たい。励ましじゃない。結論だけだ。
『おまえの等級が上がれば、置ける品が増える。口も増える。戻るたび、稼ぎ方が変わる』
「……等級を上げるには、金と実績」
『だから稼ぐ。だから戻る。だから動く』
短い言葉が、段取りになって頭に落ちる。
旅は逃げじゃない。稼ぎを太くするための動きだ。戻る場所を捨てずに、戻る回数を増やしていく。そうすれば、停滞しない。
ハルは革袋の重さを確かめた。
銀貨が鳴る。小さく、確かな音だ。
「……決めた。まずは三日。行って、戻る」
ガルムはようやく、ほんの少しだけ首を下げた。
『よい。――剣は鞘に収めておけ』
「……え」
ハルは自分でも気づかないまま、腰へ手をやっていた。
反射で剣に触れかけた手が、途中で止まる。息を吸って、肩の力が抜けた。
「……で、筒だ」
『そうだ』
ハルは金の筒を取り出した。
両手で包む。息を吐く。肩を落とす。腹の温かさを掌へ。押さずに流す。
一回目、冷たい。
二回目、少しだけぬるい。匂いが、かすかに立った。
ハルはその匂いを追うように鼻を動かし、ふと顔を上げた。
匂いが“散って”いない。いつもより、細い。一本の筋みたいに、森の奥へ伸びている気がした。
「……おい」
自分の声が裏返りそうになる。
ガルムの目が、同じ方向を見る。
琥珀色が揺れない。
『感じたか』
「匂いが……筋になってる」
『よい。
……それは、この森の中ではない』
言われた瞬間、背中がぞわりとした。
怖いのに、胸の奥が熱くなる。未知に向かう熱だ。久しぶりに思い出す種類の熱。
『筒は教える。
だが、開けた先は、おまえが歩いて確かめよ』
ガルムはそう言って、木陰へ戻った。
巨体が影に溶けても、匂いの筋だけが、森の外へ伸びている気がした。
ハルは筒を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
銀貨の音が革袋の中で小さく鳴る。工房の印が胸元で冷たい。
――外だ。
頭の中で、短い言葉が一つだけ残った。
■工房との契約内容
上物=甲=銀貨六枚
欠け=乙=銀貨二枚
※工房で並みは契約しなかったので、露店等で売る。




