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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

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第4話 工房の口利きと、匂いの芽

朝、目が覚めたとき、腹の底が静かだった。

昨日までみたいに、起きた瞬間から何かを欲しがって騒ぐ感じがない。


薄暗い家の中で、ハルはまず手を洗った。爪の間に残った土を落とす。水は冷たい。指がかじかむ。

それでも、昨日買った塩が棚にあるのを見ると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


黒パンを切り、端っこを口に入れる。固い。噛むと酸味がある。

鍋に水を張って火にかけ、野菜を放り込み、塩をひとつまみ――それだけで匂いが変わる。薄い汁でも、ちゃんと食い物の匂いになる。


「……続けられるか」


誰に聞かせるでもなく言って、笑いそうになってやめた。

銀貨がある。けれど油断すれば、すぐ消える。親父がそうだった。金が入る日ほど、金は出ていく。


腰の革袋を確かめる。銀貨が鳴る。

胸の内ポケットには、昨日拾った金環茸が入っている。売るかどうかはまだ決めていない。今日の主役は別だ。


布袋を二つ、木の皿を一枚、古い布を一枚。小枝の代わりに、先の丸い木べらを一本。

それだけをリュックに入れ、ハルは家を出た。


森は朝の匂いがした。湿った土、冷えた葉、遠くの水の気配。

歩くたび、吐く息が白くなる。まだ体が目覚めきっていない。足が重い。


切れ間へ近づくと、空気が変わる。鳥が静かになる。葉擦れの音だけが残る。

ハルはそれを感じるようになっていた。昨日まではただ怖いだけだったのに、今日は「来る」と分かる。


木陰が動いた。灰と銀の毛並みが、朝の薄い光を吸っている。

体高は人より高い。首が太い。顎の影が、ハルの肩まで届く距離だ。


『早いな』


ガルムの声が落ちる。低く、短い。


「……寝られたからな」


『食ったからであろう。腹が満たされれば、体も動く』


言い当てられて、ハルは鼻を鳴らした。

ムカつくのに、否定できない。


ガルムは針葉樹のほうへ歩き出した。

昨日教えられた目印を、ハルはもう探していた。青い苔。樹皮の黒い筋。新しい裂け目。


見つけた。

飴色の塊が垂れて、固まっている。光は弱いが、割れ目の中に青白いものが眠っているのが分かる。


ハルは木べらを当て、縁を起こした。

昨日より手が落ち着いている。力を入れすぎない。角度を変える。息を止めない。


ぱき、と取れた。


取った塊を布で軽く拭う。樹皮の粉が落ち、飴色が少し澄む。

欠けたものは別の袋へ。欠けていないものは別へ。やってみると、分けるだけで気持ちが整う。どれを“売りにする”かが目の前で分かるからだ。


『よい。――余計なことを覚えたな』


ガルムが言う。


「お前が言ったんだろ。放り込むなって」


『そうだ。』


それ以上は言わない。褒めもしない。

だが、見ている気配はある。見られると、手が少し丁寧になるのが悔しい。


午前の半ばまで、ハルは樹脂を集めた。

腕がだるい。指が痛い。樹脂の匂いが布に移って、手のひらに残る。甘く乾いた匂いだ。


最後に、白縁草の群れを一瞥する。

昨日の言葉が残っている。


――勝手に拾え。


ハルは膝をついて土をほどいた。

すぐには出ない。けれど焦らない。土の色の変わり目を見る。指で土を避ける。小さく丸い硬さに触れたとき、胸の奥で小さく何かが跳ねた。


「……二つ目」


金環茸が出た。昨日より少し大きい。

ハルは息を吐いて、それを布袋へ入れた。


ガルムは鼻先を少し動かしただけで言った。


『売るなら売れ。残すなら残せ。

いずれにせよ、おまえが決めることだ』


「……今日は、売る。腹を固める」


『よい』


それだけ言って、ガルムは切れ間の影へ戻った。

町へは来ない。最初からそういう約束だ。だからハルは、背中を見送ってから一人で歩き出した。


市場は昼前で混んでいた。

声、匂い、足音。鍋の湯気。脂の焦げる匂い。布に染みた香草。全部が腹を刺激する。


ハルはいつもの端の角へ行きかけて、足を止めた。

昨日の銀貨五枚半が、まだ革袋の中にある。だが、場所はそのままだ。場所を変えるには金がいる。金を出すには勇気がいる。


「……まずは、売ってからだ」


自分に言い聞かせて、通りを歩いた。


指先が黒い若い男――工房の使い走りが、また来ていた。

昨日より荷が重い。袋が二つ。道具袋も増えている。今日も買い付けの顔だ。


ハルは深く息を吸って声をかけた。


「すみません」


男が振り向く。目が先に袋へ行く。

あの視線の動きで、相手が“見る価値があるか”を一瞬で決めているのが分かる。


「……またお前か。夜光樹脂か?」


「はい。上物だけまとめました。欠け物は別です」


ハルは上物の袋だけを差し出した。

男は袋の口を覗き、光り方を確かめる。指で一つ転がし、断面を見る。


「澄んでるな。粉も少ない。……拭いたか」


「樹皮は落としてます。湿りも、朝のうちに飛ばしてから袋に入れた」


男は小さく頷いた。


「親方がな、昨日のは気に入ったらしい。

“同じ質で続くなら口を作る”って言ってた」


口。

それが何かは分かる。相手が変わる。値段の話が楽になる。売り先が一つ固まる。


「……口を作るって、どうなるんだ」


「工房の札で買い取る。帳面に乗る。

お前も、下手な値切り客と揉めなくて済む」


それは魅力だった。

だが、その分、こちらも誤魔化しが効かない。質を落とせばすぐ切られる。


男は袋を返しながら言った。


「今日の分、上物だけなら銀貨六枚出す。

欠け物は、別で二枚――いや、一枚半だ。混じりが多い」


「……欠け物は一枚半でいい。上物は六枚で」


男は即答で銀貨を出した。

合わせて七枚半。手のひらが冷えるほどの重みだ。


「……助かる」


思わず漏れた声に、自分で驚いた。

男は肩をすくめただけだ。


「助かるのはこっちも同じだ。

夜光樹脂は探せるやつが少ない。見つけても雑に剥がして粉にする。

上物で揃えてくるやつは、もっと少ない」


ハルは頷いた。

ガルムの言葉が、今、値段になって返ってきている。


男は立ち去り際に、指で空を指した。


「明日か明後日、親方に一度顔を見せろ。

工房の裏口だ。昼過ぎならいる。――場所は聞けば分かる」


「……分かった」



男が人波に消えたあと、ハルは革袋を握りしめた。

銀貨が鳴る。昨日より増えた。だが、ここからだ。


金環茸は、治療院に売る。

あの使い走りが通る通りを思い出し、ハルは足を向けた。


昼の通りで、同じ札が揺れているのを見つける。

昨日の男だ。今日は急ぎ足が少しだけ緩い。


「すみません」


振り向かれて、男の眉が動く。


「……またお前か」


「金環茸が、もう一つ。昨日より少し大きい」


男の目が細くなる。仕事の顔だ。


「見せろ」


布袋を開ける。匂いを嗅がれる。断面を見られる。

昨日と同じ流れ。違うのは、ハルの息が乱れていないことだ。


「……乾きは昨日よりマシだな。

出所は?」


「言えません」


「当然だ」


男はあっさり言った。


「銀貨三枚。――それでいいか」


昨日なら、そこで胸が跳ねて終わっていた。

今日は違う。昨日の経験がある。値切られた理由も分かる。


「……三枚でいい。ただし、次は乾きをもっと良くして持ってくる」


男は一瞬だけ目を上げた。


「……次があるのか」


「ある」


言い切った自分が、少しだけ怖かった。

だが、言い切らないと始まらない。


銀貨三枚が手に入る。

合計、十枚半。数字だけ見れば、ここ数日の自分が嘘みたいだ。


ハルは買い物を済ませた。

汁、パン、肉、野菜。塩も少し。干し肉の材料になる肉も少し。香草を束で一つ。

腹に入れる分と、明日を作る分を分けて買う。そうすると財布が軽くなるのが怖くなる。怖いのに、買う。


それでも今日は、最後に商人ギルドへ足を向けた。

建物の前で一度、立ち止まる。ここはいつだって胃が痛くなる。


受付の小僧に銀貨を見せると、態度が少し変わった。

露骨で、腹が立つ。だが、相手も人間だ。


「場所を……少しだけ良くしたい」


係の男が帳面をめくる。


「端の角から、端の角へ移るだけだぞ。今より、人通は多い。

……月の会費は銀貨二枚。場所代は別で銅貨」


銀貨二枚。

痛い。だが、払えない額じゃない。払ってしまえば、後には戻れない。戻るつもりもない。


ハルは革袋から銀貨を二枚出した。

冷たい音が机の上で鳴る。男は帳面に印をつけ、紙片を渡してきた。


「明日からはここだ。遅れるな。場所は早い者勝ちだ」


「……分かりました」


ギルドを出た瞬間、肩の力が抜けた。

汗が背中に張りついているのに気づく。緊張で汗をかいていた。情けない。だが、情けないままでいい。進んだのは確かだ。


日が落ちる前に切れ間へ戻ると、木陰が動いた。

ガルムがいる。いつもの距離。踏み込んでこない距離。


『売れたか』


「売れた。夜光樹脂は十中八九、工房の口が作れそうだ。

金環茸も売った」


ガルムは鼻先を少し動かしただけで言う。


『よい。

金は増えたか』


「……増えた。けど、ギルドに二枚払った。場所を少し良くする」


『賢い。売る場所が悪ければ、どれだけ拾っても手元に残らん』


さらりと言う。

その言い方が、千年分の経験の重みなのだろうと思った。


『次は筒だ』


ハルは父親の形見の金の筒を取り出した。

掌に乗せると冷たい。冷たいままなのが腹立たしい。


「今日は少し、分かった気がする」


『気がするだけでは足りぬ。やれ』


ガルムの声は低い。急がない。

急がないぶん、逃げ道がない。


ハルは筒を両手で包んだ。

息を吐く。肩の力を抜く。腹の底の温かさを思い出し、掌へ落とす。落として、流す。


――何も起きない。


舌打ちしそうになって、飲み込む。

力むと詰まる。ガルムが言った通りだ。詰まるのは、今の自分だ。


もう一度。

息を吐く。目を閉じる。湯を器に注ぐみたいに――押さずに、流す。


そのとき、筒の中で、かすかに何かが鳴った。

耳じゃなく、掌の奥で感じる音。冷たい金属が、一瞬だけぬるくなる。


「……っ」


鼻先に、ほんのわずかな匂いが立った。

甘い。夜光樹脂の匂いに似ているが、もっと乾いていて、もっと鋭い。


ガルムが動かないまま言った。


『今のだ。』


「出た……?」


『出た。

だが、まだ浅い。すぐ消えるであろう』


実際、匂いはすぐ薄くなった。

けれど、確かに出た。確かに自分でやった。


ハルは筒を見下ろし、唾を飲み込んだ。指が震えている。怖いのと、嬉しいのと、どっちか分からない。


『明日もやれ。十回、百回。

匂いが出るようになれば、次が見える』


「次って……」


ガルムの目が、森の奥へ向いた。

夜の気配が降りてくる中で、琥珀色の目だけが揺れない。


『金の匂いがする場所だ。

……おまえが探せるようになれば、我がいちいち口を出す必要もなくなる』


「口、出してた自覚はあるんだな」


『我は必要なことしか言っておらぬ』


言い切って、ガルムは木陰へ戻った。

巨体が影に溶けても、気配だけが残る。


ハルは筒を革袋へしまい、家へ向かった。

袋の中には、今日買った食い物がある。銀貨の音もする。明日からの場所もある。


それでも、掌の奥に残った、あの一瞬のぬるさが消えない。

匂いが出た。ほんの少しだけ。


明日がある。

今日より、もう少し先へ行ける。そんな気がした。

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