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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第31話 三者の証文


冬の朝は、息が白いだけで痛い。


店のほうは、もう回る。

リツが値を読んで、釣り銭を数え、帳面を揃える。

ユマとオウが、家の裏で手を動かす。

ハルがいなくても、今日一日くらいは崩れない。


それが分かっているのに、胸は落ち着かなかった。


治療院から呼びが来た。

工房の親方経由で、短い言葉だけが伝えられた。


「結果が出た。今日、来い」


ハルは外套を羽織り、戸を閉めた。

鍵を確かめる手が、いつもより硬い。


道は乾いている。

凍った土が靴底に鳴り、町の端の空気だけが重い。

治療院の門は、相変わらず白い壁で、入り口の香だけが甘い。


裏口で待っていたのは、治療院の男と、工房の親方だった。

親方はいつもより無口で、顔の皺だけが増えている。



治療院の奥は、薬の匂いが先に来た。

甘いのに、どこか焦げた匂い。鼻の奥が乾く。


治療院の男は、口を開く前に、布包みを机の上へ置いた。


工房の親方が、腕を組んだまま壁にもたれている。

ハルは口を挟まない。――ここは、まだ“口”を持っていない。



「……これが、あなたが預けたものです」


療養士の男が、小皿を差し出した。

白い粉。指で払えば消えそうな、砂粒みたいな粒が混じっている。


「結論から申し上げます。これは“媒”です」


「なかだち」


男が読みを添える。


「薬と薬の“間”に入ります。効き目を押し上げ、ぶつかりをほどき、副作用を抑える。……そういう性質を持っています」


丁寧すぎるほど丁寧で、逆に冷える。


親方が、短く息を吐いた。

驚きというより、腹の底で何かが落ち着いた息だった。



男は砂粒ひとつを、爪先で拾った。

ほんの欠片。風に吹かれたら終わる量。


「足りるのは、これで“薬を練る一回分”です。塗る一回分ではありません」


親方の眉がわずかに動いた。


「練る?」


「はい。薄鐘の薬にも、傷薬にも――都度、混ぜます。混ぜないと効きがぶれます。

魔力傷は、薬だけが勝手に定着してくれませんから」


男は小鍋の方を指した。

湯の面が、かすかに揺れている。


「薄鐘でまず熱を落とします。これは“落ち着かせる薬”です。

それが済んだら、次は傷の縁を薄くする薬に切り替えます。

どちらも、作り置きは薦めません。――効きが鈍ります」


ハルの喉が、きゅ、と鳴った。

作り置きできない。つまり――走れ、と言っている。


「塗り直しは?」


ハルが訊くと、男は視線を上げた。


「日に三度。動く日や、涙が出る日は四度。

割れた化粧の下で擦れると、薬が剥げます。乾けばひびます。

……その都度、作り直しです」


親方が短く息を吐いた。


「……手間が要るな」


「はい。手間が要ります。だから、値が付く」


男はさらりと言った。

同情じゃない。計算の声だ。


ハルは、胸の奥で小さく数えた。

砂粒ひとつが、一回。二つで二回。

一日で三回、四回。二段階。――足りるはずがない。


(……儲かるな)


思った瞬間、自分の心が乾いているのが分かった。

けれど乾いているから、止まらない。


男は続けた。


「ただし、扱いは厳重になります。材料の由来、運搬、保管、どれも記録が必要です。……ここから先は、工房だけでは取り持てません。

……それと、口外は一切禁止です。契約はギルドで整えます」


親方が頷く。


「だから呼んだ。ギルドを噛ませる」


ハルは、視線を上げた。

治療院の男は、少しだけ姿勢を正した。


「今回の件は、貴族筋に繋がります。金額も、口約束では済みません」


机の端に、封筒が置かれる。

厚い紙。封蝋。押し印。


「契約です。三者間」


封筒の厚みは、紙じゃなく金の重さだった。

治療院の男が、淡々と条件を読み上げる。


「手付けは金貨5枚。本日ここでお渡しします」

「供託金は金貨12枚。ギルド預かりです。契約違反があれば、そのままあなたへ支払われます」

「薄鐘は小袋ひとつ金貨2枚」

「そして――“媒”は、一欠片(治療一回分)につき金貨12枚」

「春までに、化粧で隠れる段階に届けば成功報酬として、依頼主から金貨30枚。……ここまでが治療院側の責任です」


ハルは、息を吐くふりをして喉の渇きを飲み込んだ。

銅貨を数えていた頃の額じゃない。

だが――紙に落とせば、少しだけ“縛れる”。


ハルは眉を寄せた。


「三者?」


「あなた、工房、治療院です。ギルドは見届け人として、帳に残し、供託金を預かります」


男は、口調を崩さないまま、言葉だけを鋭くした。


「こちらはあなたを縛ります。あなたは、こちらから守りを取れます。互いに、逃げ道を塞ぐためです」


親方が、机を指で叩いた。


「治療院が金を出して縛る。工房が口として立つ。ハルはサインするだけでいい……と、言いたいところだが」


親方はハルを見た。


「怖えだろ。勝手に付けられたら終わりだ。森で何があるか分からん。だから、その不安も契約に書く」


治療院の男が頷く。


「機密保持条項が要ります。あなたが黙る代わりに、こちらも手を出せない。尾行、脅迫、素材の強奪、採取場所の探索。そういった行為を禁じます」


ハルの胸の奥が、少しだけ軽くなった。

言葉にしていいのか、と迷っていた恐れを、先に言われたからだ。


男は淡々と続ける。


「違反があれば、供託金が没収されます。ギルドがそれをあなたへ支払います。……あなたの不安は、金に換えるしかありません。そういう仕組みです」


親方が鼻で笑った。


「嫌な話だが、筋は通る」


ハルは封筒に手を伸ばさず、先に言った。


「条件がある」


治療院の男は、目だけで促した。


「採れる量は、俺が決める。求められても、出せない日は出せない。無理をさせるなら、こっちが死ぬ」


「承知しました。採取量はあなたの裁量にします。こちらは必要量の“発注”を出しますが、履行は天候と安全に依存すると明記します」


すぐ書ける言い方が、男にはある。

その分だけ、こういう場に慣れているのが分かる。


親方が口を挟む。


「工房の取り分は、取り過ぎねえ。だが、運搬と保管の責任は負う。保存箱も要る。そこは銅で済む話じゃねえぞ」


治療院の男は、そこで一拍置いた。


「保存に関しては、工房の指示に従います。こちらは、必要な費用を契約に入れます」


ハルは、そこだけを聞いて、心の中で線を引いた。

保存の仕組みの話は、ここではしない。

持っている札を、最初から全部見せる必要はない。


男が封筒を開け、紙を取り出した。

文字が細かい。けれど、要点は分かる。


機密。供託。違反の罰。採取の免責。手付け。納期。運搬。保管。


そして、最後に。


「本件に関し、治療院は工房を通さずに当事者へ接触しない」


その一行が、ハルの喉を冷やした。

約束が、紙になっている。


「……これが、必要だった」


親方が低く言った。


「治療院が工房の縄を切ったら、こっちも食えん。だから、縄は残す。残したまま、縛る」


治療院の男は、感情を乗せずに頷く。


「手順を踏みます。踏まないと、また事故が起きます」


事故。

その言葉が、机の上を冷たくした。


ハルは印を押す場所を見た。

指先が一瞬だけ震えた。


サインは、縛られるためじゃない。

縛り返すためだ。


ハルは、押し印を取って息を吐いた。

押す。乾いた音。


親方も押す。

治療院の男も押す。


三つの印が並ぶと、紙はただの紙ではなくなる。

約束の形になる。


「では、ギルドへ持ち込みます」


男が紙を揃えた。


「帳に残し、供託を入れ、見届けの印をもらって成立です。……あなたは、その写しを持って帰ってください」


ハルは立ち上がった。

足の裏が少し軽い。


治療院の裏口を出ると、冬の空気が肺に刺さった。

それでも、さっきよりは息が楽だった。


親方が横に並び、短く言う。


「で、次は森だ」


ハルは頷いた。


「段取りを組む。……出すのは、必要な分だけ。俺が決める」


親方は、笑わなかった。

代わりに、いつもの職人みたいな顔で言った。


「それでいい。欲を見せたら食われる。欲を隠せ。だが、働いた分は取れ」


ハルは、外套の襟を上げた。


森は遠い。

けれど、遠いからこそ、値になる。


そして今は、ただ金目のためじゃない。

誰かの顔を戻すための素材が、金の筒に呼ばれている。


それが、ハル自身を押す。


戻る道の途中、町外れの影に、銀の毛並みが見えた。

ガルムはいつもどおり、距離を保って立っている。


ハルは、声に出さずに息を整えた。


今日の約束は、紙にした。

次の約束は、森で取りに行く。

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