第3話 夜光樹脂と、封の稽古
『次は別のものだ』
森の切れ間を抜けて奥へ入ると、ガルムは迷いなく歩いた。
巨体のくせに足音が軽い。落ち葉を踏む音はハルのほうがうるさい。腹に温かいものが入ったせいか、昨日より息は続く。それでも、背中を追うだけで精一杯だった。
「また金環茸の場所か?」
『あれはおまえでも覚えただろう。白縁草だ。
明日からは勝手に拾え。――今日は違う』
言い切って、ガルムは一本の針葉樹の前で止まった。
幹の途中に、まだ新しさの残る裂け目が走っている。その傷口から飴色の塊がいくつも垂れ、固まっていた。
「……ヤニ?」
『樹脂だ。人間の言い方ならヤニでよい』
ガルムが鼻先で塊の一つを軽く押した。
ぱき、と小さく割れた断面が、薄暗い森の中でほんのり青白く光った。強い光ではない。だが、確かに光っている。
「光ってる……」
ガルムは鼻先を引き、割れた断面を見下ろした。
声は低く、急がない。
『夜光樹脂だ。
灯りにして喜ぶ者もいるが――それは下の使い道に過ぎぬ』
ハルが首を傾けると、ガルムは言葉を続けた。
『工房がこれを買う。理由は一つ。魔道具の“中身”を守るためだ。
魔道具には細い溝や刻みがあり、そこを魔力が通る。湿りが入れば流れは乱れる。砂が噛めば詰まる。……詰まれば、誤作動する』
その言葉で、ハルの頭に昔の光景がよぎる。
路地裏の工房で、安物の“風の箱”が暴発した日だ。戸口から白い風が噴き出して、火鉢をひっくり返し、煤と火の粉が一緒に舞った。奥から聞こえたのは、怒鳴り声じゃない。喉が裂けるような悲鳴だった。
「止めろ!」と誰かが叫んで、次の瞬間、金具が弾けて壁にめり込んだ。――あれが人に当たっていたら、と思うだけで背中が冷たくなる。
淡々としているのに、話の中身だけが重い。
ハルは思わず樹脂を握り直した。
『工房はこの樹脂を溶かし、濾して、溝へ薄く流す。
外の湿りを弾き、魔力の流れを落ち着かせる――封止材だ。
だから高い。封が甘ければ、事故になる』
「溶かすなら、欠けてても同じじゃないのか」
ガルムは一度だけ、目を細めた。
『同じではない。欠けが増えたものは、たいてい汚れを抱く。湿りも残りやすい。
汚れは溶かせば濁りになる。湿りは泡になる。
濁りと泡は、固まったあと“ムラ”と“隙間”になる。……弱い場所ができる、ということだ』
『弱い場所は、まず割れる。次に漏れる。最後に壊れる。
工房が金を払うのは、光るからではない。
余計なものが混じらず、きれいに封ができるからだ』
ガルムは幹の裂け目を顎で示した。
『だが、簡単には出ぬ。
ただのヤニではない。木が傷つき、そこへ魔力が染み、夜の冷えで締まって固まったものだけがこうなる。条件が揃わねば、光らぬ』
「条件って……」
『針葉樹。新しめの裂け目。
それと、近くに青い苔が付くことがある。あれは湿りと魔力の印だ。
青苔が出て、樹皮に黒い筋が走る木を探せ。そこに飴色の塊が垂れている』
言われた途端、森の見え方が変わった。
木の肌の色、苔の付き方、傷の新旧。今まで全部「森」だったものが、細かい札に分かれていく。
「……どうやって取る」
『縁を浮かせて剥がせ。割るな。
金属は使うな。屑が混じる』
短い。だが、迷いようがない。
ハルは足元の小枝を拾い、樹脂の縁に当てた。
硬い。最初は動きもしない。角度を変え、力を入れすぎないようにして、少しずつ縁を起こす。枝先が滑って、心臓が跳ねる。落としたら欠ける。欠けたら値が落ちる。そう思うと手が固くなる。
「……くそ」
息を吐いて肩の力を抜く。
もう一度、縁を丁寧に起こす。ぱき、と小さな音がして塊が一つ取れた。
手のひらに乗った飴色が、薄く光る。
鼻を近づけると、甘く乾いた匂いがした。森の匂いに混じって、鼻の奥に残る。
『よい。――そして、儲けたいなら採ったあとに一手間かけろ』
ガルムの声が落ちる。
『袋へ放り込むな。樹皮を落とせ。湿りを飛ばせ。欠けの少ない塊だけ分けろ。
同じ量でも値が変わる。工房は“扱いのいい素材”を好む』
言い方は冷たいのに、指示ははっきりしている。
ハルは頷き、塊を一つずつ掌で確かめて、布の端で軽く拭いた。樹皮の粉が落ち、飴色が少し明るくなる。
木を変え、傷のある幹を探す。
青い苔。黒い筋。裂け目。見つけては剥がし、拭って、欠けの少ないものは別の布袋へ移す。欠けた小粒は別にまとめる。手間は増えるが、やっていると頭が静かになる。
『ついでに金環茸も一つ拾っていけ』
ガルムが白縁草の群れを顎で示した。
『それはおまえの復習だ。
今日は新しい稼ぎ口と、おまえの稼ぎ口。両方持て』
ハルは白縁草の根元へ膝をつき、昨日の感触を思い出しながら土をほどいた。
指先が冷たい。爪の間に湿った土が入る。息を吐くたび、腐葉土の匂いが鼻に残る。
土の色が少し変わった。
黒の中に淡い金色の筋。そこに、硬い丸い塊が埋まっている。
「……あった」
『よし。
それは今日は売るな。手元に残せ。明日以降の弾にせよ』
弾、という言い方だけが雑で、ガルムらしい。
ハルは布袋へ金環茸を入れ、また樹脂へ戻った。
日が傾くころ、ハルの袋には夜光樹脂がいくつも入っていた。
上物の袋は軽く、欠け物の袋はじゃり、と音がする。光り方も違う。上物は澄んで、欠け物は少し濁って見えた。
切れ間まで戻ると、ガルムは足を止めた。
夕方の風が抜けて、葉がさらりと鳴る。
『ここまでだ。町へは戻れ』
「一緒に行かないのか」
『行かぬ。
おまえが自分で売れ。値を付けられねば、いつまでも他人任せだ』
突き放す言い方なのに、不思議と腹は立たなかった。
昨日の銀貨三枚が、まだ掌に残っている気がしたからだ。自分で売って、温かい汁を飲んだ。あれは夢じゃない。
ハルは頷き、再び町へ向かった。
市場は夕方で、人の顔つきが昼とは違う。
仕入れを終えた商人、帰り支度の屋台、店の使い走り。小銭の音が少し落ち着いて、声が通りやすい。
ハルは歩きながら相手を探した。
親父の言葉を思い出す。工房が買う。なら、工房の匂いを嗅げ。
見つけたのは、指先が黒い若い男だった。
土じゃない。金属粉と刻印の墨の汚れだ。腰に小さな道具袋、肩の鞄は空に近い。買い付け帰りではなく、これから買う顔をしている。
ハルは息を整えて声をかけた。
「すみません」
男は振り向き、目だけで用件を急かした。
「何だ。急いでる」
「工房の方ですよね。……魔道具の材料になる樹脂があります。夜光樹脂です」
男の目が、ハルの袋の口へ落ちる。
淡い光がちらりと漏れるのを見て、足が止まった。
「……見せろ」
ハルはまず、上物の布袋だけを開けた。
飴色の塊を掌に乗せる。拭ってあるぶん、樹皮の粉が少ない。
男は鼻を寄せて短く息を吸い、断面に爪先を当てて硬さを見る。
それから光り方を確かめるように、指で一度だけ転がした。
「……混じりは悪くない。拭いてあるな」
「採ってすぐ、樹皮だけ落としました。欠けたのは別に分けてます」
男の視線が、次に欠け物の袋へ流れる。
覗くだけで触らない。その反応だけで“こっちは安い”と分かる。
「……量は」
ハルは喉を鳴らした。
ここで弱気を出すと、昨日と同じになる。
「上物がこれだけ。欠け物も少し。まとめて――銀貨六枚」
男は即答しなかった。
上物を数え、欠け物の袋も一瞬だけ覗いて、また上物に戻る。値を決める目だ。
「六は高い。欠け物が混じる。五だ」
「欠け物はあくまで“おまけ”です。上物だけで見てください。五では足りない」
男が鼻で息を吐く。
「……工房の小口で動いてる。俺が勝手に増やせない。――五枚半」
半枚。昨日も出た。
けれど、今日は違う。相手が上げた。こちらの手間を見たからだ。
ハルは一瞬だけ迷って、頷いた。
「五枚半で。お願いします」
男は銀貨を出し、布袋を受け取った。
受け取る手つきが慣れている。材料を扱う手だ。
銀貨が掌に乗る。冷たい重み。
昨日より一枚半、多い。その差が、腹より先に背筋を温めた。
「……ありがとうございました」
男はもう答えず、さっさと人波へ消えた。
忙しいのは本当らしい。
ハルは先に買い物を済ませた。
熱い汁、パン、肉、野菜。昨日より袋が重い。重いのが嬉しい。さらに塩を少し、香草を少し。贅沢ではない。けれど、食べ物を“選ぶ”という行為そのものが久しぶりだった。
汁をすすって、息を吐く。
豆の甘さが舌に残り、パンの温かさが指先に戻る。腹の底から、ようやく人間に戻っていく感じがした。
「……明日もやれる」
口に出すと、少しだけ笑ってしまった。
誰にも見られていないのに、照れて周りを見回す。ほんとに情けない。
日が落ちる前に切れ間へ戻ると、木陰が動いた。
ガルムがいる。顎がハルの頭の上に影を落とす距離。近いのに、踏み込んでこない距離。
『売れたか』
ハルは銀貨を二枚、掌に乗せて見せた。
残りは革袋の中だ。全部見せる必要はない。だが、証拠は見せたい。
「売れた。夜光樹脂。……銀貨五枚半」
ガルムは鼻先を少し動かしただけで、銀貨を見下ろす。
『昨日より上だな。
……下処理をしたからであろう。工房は手間を見て買う』
「見てたのか」
『見ていた。見ねば教えられぬ』
言い切り方に迷いがない。
千年生きた、というのはこういう所で嘘がつけないのだろう、とハルは思った。
『次は筒だ』
ハルは腰の革袋に手を伸ばし、親父の形見の筒を取り出した。
掌に乗せると冷たい。昨日、ガルムが“起こした”ときの匂いは、まだ鼻の奥に残っている。
『毎回、我に起こさせる気か』
「無理だろ。俺、できない」
ガルムは短く息を吐いた。叱るでも笑うでもない。
『できぬのではない。下手なだけだ。
……よい。教える。だが、すぐ出来ると思うな』
ガルムの鼻先が筒へ寄る。
『息を止めるな。力むな。
“押す”のではない。“流す”のだ。湯を器に注ぐように』
「流す……?」
『おまえの中の熱を、筒へ渡せ。
肩に力を入れるな。急ぐな。――まずは一度、やってみろ』
ハルは目を閉じ、筒を両手で包んだ。
腹の奥に残る温かさを思い出して、掌へ落とす。落とすつもりで、落ちない。焦りが出る。焦った瞬間に肩が固くなる。
冷たいままだ。匂いもしない。
『……そうだな』
ガルムの声が落ちる。責める響きはない。だが甘くもない。
『今のおまえは、力でどうにかしようとしている。
力は、流れを止める。――もう一度』
ハルは歯を食いしばり、もう一度筒を包んだ。
息を吐く。肩を落とす。腹の温かさを、手のひらへ。手のひらから筒へ。
それでも、何も起きない。
ただ冷たい金属が、掌に貼り付いているだけだ。
『今日はここまでだ』
ガルムが言った。
『明日もやれ。十回やれ。百回やれ。
出来るまでやれば、いつか出来る。それだけのことだ』
「……簡単に言うな」
『簡単ではない。
だが、やらねば始まらぬ』
そう言って、ガルムは木陰へ戻った。
巨体が影に溶けていくのに、気配だけが残る。
ハルは筒を握りしめたまま、家へ向かった。
袋の中にはパンと肉と野菜がある。革袋には銀貨がある。胸の内ポケットには金環茸がある。
筒はまだ冷たい。
けれど今日は、その冷たさが嫌じゃなかった。
明日がある。
そう思えるだけのものが、もう手の中にある。




