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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第一章 端っこの商人とガルム

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第3話 夜光樹脂と、封の稽古

『次は別のものだ』


森の切れ間を抜けて奥へ入ると、ガルムは迷いなく歩いた。

巨体のくせに足音が軽い。落ち葉を踏む音はハルのほうがうるさい。腹に温かいものが入ったせいか、昨日より息は続く。それでも、背中を追うだけで精一杯だった。


「また金環茸の場所か?」


『あれはおまえでも覚えただろう。白縁草だ。

明日からは勝手に拾え。――今日は違う』


言い切って、ガルムは一本の針葉樹の前で止まった。

幹の途中に、まだ新しさの残る裂け目が走っている。その傷口から飴色の塊がいくつも垂れ、固まっていた。


「……ヤニ?」


『樹脂だ。人間の言い方ならヤニでよい』


ガルムが鼻先で塊の一つを軽く押した。

ぱき、と小さく割れた断面が、薄暗い森の中でほんのり青白く光った。強い光ではない。だが、確かに光っている。


「光ってる……」


ガルムは鼻先を引き、割れた断面を見下ろした。

声は低く、急がない。


『夜光樹脂だ。

灯りにして喜ぶ者もいるが――それは下の使い道に過ぎぬ』


ハルが首を傾けると、ガルムは言葉を続けた。


『工房がこれを買う。理由は一つ。魔道具の“中身”を守るためだ。

魔道具には細い溝や刻みがあり、そこを魔力が通る。湿りが入れば流れは乱れる。砂が噛めば詰まる。……詰まれば、誤作動する』


その言葉で、ハルの頭に昔の光景がよぎる。

路地裏の工房で、安物の“風の箱”が暴発した日だ。戸口から白い風が噴き出して、火鉢をひっくり返し、煤と火の粉が一緒に舞った。奥から聞こえたのは、怒鳴り声じゃない。喉が裂けるような悲鳴だった。

「止めろ!」と誰かが叫んで、次の瞬間、金具が弾けて壁にめり込んだ。――あれが人に当たっていたら、と思うだけで背中が冷たくなる。


淡々としているのに、話の中身だけが重い。

ハルは思わず樹脂を握り直した。


『工房はこの樹脂を溶かし、濾して、溝へ薄く流す。

外の湿りを弾き、魔力の流れを落ち着かせる――封止材だ。

だから高い。封が甘ければ、事故になる』


「溶かすなら、欠けてても同じじゃないのか」


ガルムは一度だけ、目を細めた。


『同じではない。欠けが増えたものは、たいてい汚れを抱く。湿りも残りやすい。

汚れは溶かせば濁りになる。湿りは泡になる。

濁りと泡は、固まったあと“ムラ”と“隙間”になる。……弱い場所ができる、ということだ』


『弱い場所は、まず割れる。次に漏れる。最後に壊れる。

工房が金を払うのは、光るからではない。

余計なものが混じらず、きれいに封ができるからだ』


ガルムは幹の裂け目を顎で示した。


『だが、簡単には出ぬ。

ただのヤニではない。木が傷つき、そこへ魔力が染み、夜の冷えで締まって固まったものだけがこうなる。条件が揃わねば、光らぬ』


「条件って……」


『針葉樹。新しめの裂け目。

それと、近くに青い苔が付くことがある。あれは湿りと魔力の印だ。

青苔が出て、樹皮に黒い筋が走る木を探せ。そこに飴色の塊が垂れている』


言われた途端、森の見え方が変わった。

木の肌の色、苔の付き方、傷の新旧。今まで全部「森」だったものが、細かい札に分かれていく。


「……どうやって取る」


『縁を浮かせて剥がせ。割るな。

金属は使うな。屑が混じる』


短い。だが、迷いようがない。


ハルは足元の小枝を拾い、樹脂の縁に当てた。

硬い。最初は動きもしない。角度を変え、力を入れすぎないようにして、少しずつ縁を起こす。枝先が滑って、心臓が跳ねる。落としたら欠ける。欠けたら値が落ちる。そう思うと手が固くなる。


「……くそ」


息を吐いて肩の力を抜く。

もう一度、縁を丁寧に起こす。ぱき、と小さな音がして塊が一つ取れた。


手のひらに乗った飴色が、薄く光る。

鼻を近づけると、甘く乾いた匂いがした。森の匂いに混じって、鼻の奥に残る。


『よい。――そして、儲けたいなら採ったあとに一手間かけろ』


ガルムの声が落ちる。


『袋へ放り込むな。樹皮を落とせ。湿りを飛ばせ。欠けの少ない塊だけ分けろ。

同じ量でも値が変わる。工房は“扱いのいい素材”を好む』


言い方は冷たいのに、指示ははっきりしている。

ハルは頷き、塊を一つずつ掌で確かめて、布の端で軽く拭いた。樹皮の粉が落ち、飴色が少し明るくなる。


木を変え、傷のある幹を探す。

青い苔。黒い筋。裂け目。見つけては剥がし、拭って、欠けの少ないものは別の布袋へ移す。欠けた小粒は別にまとめる。手間は増えるが、やっていると頭が静かになる。


『ついでに金環茸も一つ拾っていけ』


ガルムが白縁草の群れを顎で示した。


『それはおまえの復習だ。

今日は新しい稼ぎ口と、おまえの稼ぎ口。両方持て』


ハルは白縁草の根元へ膝をつき、昨日の感触を思い出しながら土をほどいた。

指先が冷たい。爪の間に湿った土が入る。息を吐くたび、腐葉土の匂いが鼻に残る。


土の色が少し変わった。

黒の中に淡い金色の筋。そこに、硬い丸い塊が埋まっている。


「……あった」


『よし。

それは今日は売るな。手元に残せ。明日以降の弾にせよ』


弾、という言い方だけが雑で、ガルムらしい。

ハルは布袋へ金環茸を入れ、また樹脂へ戻った。


日が傾くころ、ハルの袋には夜光樹脂がいくつも入っていた。

上物の袋は軽く、欠け物の袋はじゃり、と音がする。光り方も違う。上物は澄んで、欠け物は少し濁って見えた。


切れ間まで戻ると、ガルムは足を止めた。

夕方の風が抜けて、葉がさらりと鳴る。


『ここまでだ。町へは戻れ』


「一緒に行かないのか」


『行かぬ。

おまえが自分で売れ。値を付けられねば、いつまでも他人任せだ』


突き放す言い方なのに、不思議と腹は立たなかった。

昨日の銀貨三枚が、まだ掌に残っている気がしたからだ。自分で売って、温かい汁を飲んだ。あれは夢じゃない。


ハルは頷き、再び町へ向かった。


市場は夕方で、人の顔つきが昼とは違う。

仕入れを終えた商人、帰り支度の屋台、店の使い走り。小銭の音が少し落ち着いて、声が通りやすい。


ハルは歩きながら相手を探した。

親父の言葉を思い出す。工房が買う。なら、工房の匂いを嗅げ。


見つけたのは、指先が黒い若い男だった。

土じゃない。金属粉と刻印の墨の汚れだ。腰に小さな道具袋、肩の鞄は空に近い。買い付け帰りではなく、これから買う顔をしている。


ハルは息を整えて声をかけた。


「すみません」


男は振り向き、目だけで用件を急かした。


「何だ。急いでる」


「工房の方ですよね。……魔道具の材料になる樹脂があります。夜光樹脂です」


男の目が、ハルの袋の口へ落ちる。

淡い光がちらりと漏れるのを見て、足が止まった。


「……見せろ」


ハルはまず、上物の布袋だけを開けた。

飴色の塊を掌に乗せる。拭ってあるぶん、樹皮の粉が少ない。


男は鼻を寄せて短く息を吸い、断面に爪先を当てて硬さを見る。

それから光り方を確かめるように、指で一度だけ転がした。


「……混じりは悪くない。拭いてあるな」


「採ってすぐ、樹皮だけ落としました。欠けたのは別に分けてます」


男の視線が、次に欠け物の袋へ流れる。

覗くだけで触らない。その反応だけで“こっちは安い”と分かる。


「……量は」


ハルは喉を鳴らした。

ここで弱気を出すと、昨日と同じになる。


「上物がこれだけ。欠け物も少し。まとめて――銀貨六枚」


男は即答しなかった。

上物を数え、欠け物の袋も一瞬だけ覗いて、また上物に戻る。値を決める目だ。


「六は高い。欠け物が混じる。五だ」


「欠け物はあくまで“おまけ”です。上物だけで見てください。五では足りない」


男が鼻で息を吐く。


「……工房の小口で動いてる。俺が勝手に増やせない。――五枚半」


半枚。昨日も出た。

けれど、今日は違う。相手が上げた。こちらの手間を見たからだ。


ハルは一瞬だけ迷って、頷いた。


「五枚半で。お願いします」


男は銀貨を出し、布袋を受け取った。

受け取る手つきが慣れている。材料を扱う手だ。


銀貨が掌に乗る。冷たい重み。

昨日より一枚半、多い。その差が、腹より先に背筋を温めた。


「……ありがとうございました」


男はもう答えず、さっさと人波へ消えた。

忙しいのは本当らしい。


ハルは先に買い物を済ませた。

熱い汁、パン、肉、野菜。昨日より袋が重い。重いのが嬉しい。さらに塩を少し、香草を少し。贅沢ではない。けれど、食べ物を“選ぶ”という行為そのものが久しぶりだった。


汁をすすって、息を吐く。

豆の甘さが舌に残り、パンの温かさが指先に戻る。腹の底から、ようやく人間に戻っていく感じがした。


「……明日もやれる」


口に出すと、少しだけ笑ってしまった。

誰にも見られていないのに、照れて周りを見回す。ほんとに情けない。


日が落ちる前に切れ間へ戻ると、木陰が動いた。

ガルムがいる。顎がハルの頭の上に影を落とす距離。近いのに、踏み込んでこない距離。


『売れたか』


ハルは銀貨を二枚、掌に乗せて見せた。

残りは革袋の中だ。全部見せる必要はない。だが、証拠は見せたい。


「売れた。夜光樹脂。……銀貨五枚半」


ガルムは鼻先を少し動かしただけで、銀貨を見下ろす。


『昨日より上だな。

……下処理をしたからであろう。工房は手間を見て買う』


「見てたのか」


『見ていた。見ねば教えられぬ』


言い切り方に迷いがない。

千年生きた、というのはこういう所で嘘がつけないのだろう、とハルは思った。


『次は筒だ』


ハルは腰の革袋に手を伸ばし、親父の形見の筒を取り出した。

掌に乗せると冷たい。昨日、ガルムが“起こした”ときの匂いは、まだ鼻の奥に残っている。


『毎回、我に起こさせる気か』


「無理だろ。俺、できない」


ガルムは短く息を吐いた。叱るでも笑うでもない。


『できぬのではない。下手なだけだ。

……よい。教える。だが、すぐ出来ると思うな』


ガルムの鼻先が筒へ寄る。


『息を止めるな。力むな。

“押す”のではない。“流す”のだ。湯を器に注ぐように』


「流す……?」


『おまえの中の熱を、筒へ渡せ。

肩に力を入れるな。急ぐな。――まずは一度、やってみろ』


ハルは目を閉じ、筒を両手で包んだ。

腹の奥に残る温かさを思い出して、掌へ落とす。落とすつもりで、落ちない。焦りが出る。焦った瞬間に肩が固くなる。


冷たいままだ。匂いもしない。


『……そうだな』


ガルムの声が落ちる。責める響きはない。だが甘くもない。


『今のおまえは、力でどうにかしようとしている。

力は、流れを止める。――もう一度』


ハルは歯を食いしばり、もう一度筒を包んだ。

息を吐く。肩を落とす。腹の温かさを、手のひらへ。手のひらから筒へ。


それでも、何も起きない。

ただ冷たい金属が、掌に貼り付いているだけだ。


『今日はここまでだ』


ガルムが言った。


『明日もやれ。十回やれ。百回やれ。

出来るまでやれば、いつか出来る。それだけのことだ』


「……簡単に言うな」


『簡単ではない。

だが、やらねば始まらぬ』


そう言って、ガルムは木陰へ戻った。

巨体が影に溶けていくのに、気配だけが残る。


ハルは筒を握りしめたまま、家へ向かった。

袋の中にはパンと肉と野菜がある。革袋には銀貨がある。胸の内ポケットには金環茸がある。


筒はまだ冷たい。

けれど今日は、その冷たさが嫌じゃなかった。


明日がある。

そう思えるだけのものが、もう手の中にある。

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