第29話 仕事の音
家へ戻る。
ユマは戸の前で待っていた。手を洗う桶がすでに出ている。刃物も並んでいる。人が増えると、家が作業場になる。
「おはようございます。今日はこれですね」
ユマが獲物を見て、すぐ顔を上げた。
「腐る順でいきます。肉を塩。脂は火に。皮は剥いで干す。骨はあとで」
「任せる。俺は樹脂を工房へ入れてくる」
「わかりました。あ、骨は細いのが取れそうです。針にできますよ。留め具も」
当たり前みたいに言う。
ハルは一瞬だけ笑いそうになって、すぐ口を閉じた。笑うほど余裕はない。だが、そういう提案が出る家になったのは確かだ。
オウが荷車の柄を肩に乗せ直す。
「工房まで走るか」
「走る。今日は短く済ませたい」
※
工房へ。
樹脂の袋を渡し、受け取りはさらっと済ませる。親方は余計な話をしない。
治療院と揉めている最中だからこそ、言葉は削る。
代わりに、目だけが動いた。
机の端に、小さな包みが置かれている。ハルが預けた“匂い”の欠片だ。まだ開かれていない。触れられていない。
親方はそれを見てから、ハルを見た。
「……動けるうちは動け。判定は向こうが出す」
「はい」
それだけで、胸の内側が少しだけ軽くなる。何が軽いのか自分でも分からない。言葉が少ないほど、重いものが残る。
家へ戻ると、煙の匂いがした。
小鍋で脂がゆっくり溶けている。ユマが木べらで混ぜ、塩が肉に擦り込まれていく。作業が進んでいる音がする。
オウは骨を押さえ、力任せにならないように刃の角度を変えている。見よう見まねだが、乱暴じゃない。
「これ、手が痛くなるな」
「痛くならないやり方にします。力だけだと刃が欠けます」
ユマが淡々と言った。
オウが鼻で笑い、言い返さない。言い返せないのだ。正しいから。
ハルは作業台の端に立ち、帳面を開いた。
今日の分。工房の分。店の分。
次の五の日に並べるもの。
防水油。塩漬け肉。皮の端切れ。骨針。留め具。
数が増えると、頭が落ち着く。落ち着くほど、預けた欠片のことを思い出す。
あれが判定され、名がつけば、たぶん値段もつく。
値段がつけば、欲がつく。
欲がつけば、口が増える。耳が増える。目が増える。
ハルは帳面の端を指で押さえた。
折れない。折れないように、動く。
それだけだ。
昼が近づくころ、戸を叩く音がした。
短い、仕事の音。
ハルが戸を開けると、工房の小僧が立っていた。
息が白い。
「親方が。……今日、治療院から人が来た。夕方までに顔を出せって」
ハルの喉の奥が、また乾いた。
判定か。
薄鐘の続きか。
どっちにせよ、こちらの手は止まる。
ハルは短く頷いた。
「分かった。夕方、行く」
戸を閉めて振り返ると、ユマが手を止めずに言った。
「行ってきてください。ここは回せます」
オウも、骨を押さえたまま一度だけ顔を上げた。
黙っている。
だが、逃がさない顔をしている。
ハルは火の具合を見て、鍋の匂いを嗅いだ。
作業は回っている。
回っているのに、心の奥だけが、まだ落ち着かない。
夕方までの時間を、埋めるように手を動かした。




