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金の匂いがする方へ ―魔獣と歩いた、商いの始まり―  作者: ちわいぬ
第二章 動く時

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第28話 止めない手

ハルは帳面を閉じ、火を落とした。眠りは浅い。

目を閉じれば、あの欠片の冷たさだけが指に残る。


鑑定に出した包みは、もう工房の奥だ。

扉の向こうへ消えた瞬間、胸だけが取り残された。


返事が来るまで、やることがない。

――いや、やることはある。多すぎる。




ハルは朝から火を起こし、鍋を掛ける。


石鹸だ。

油がある。灰もある。

匂いを落とせれば、手も、道具も、少しはましになる。

治療院だって、清いものを嫌うわけがない。


(……できるはずだ)


そう思った時点で、もう危ない。

“できるはず”で、今まで何度転んだ。


灰を溶いた湯へ、油を細く落とす。

かき混ぜる。かき混ぜる。

白く濁る――ところまでは、よかった。


次の瞬間、鼻を刺す匂いが立った。

焦げじゃない。灰の、えぐい匂い。

指先が、じり、と熱い。


「……濃い」


水を足す。

今度は薄い。

薄いのに、匂いだけは残る。


固まる前に分離した。

上に油、下に灰水。

見た目だけでも、もう負けている。


鍋を見つめたまま、ハルは息を吐いた。

失敗すると、急に静かになる。

火の音だけが、やけに大きい。


――捨てるのは、惜しい。

でも、売り物にはならない。


そのとき、戸口で足音がした。


「……旦那」


ユマだった。

手を洗いに来ただけの顔で、鍋を一目見て止まる。


「灰が強すぎます。

 粉じゃなくて、上澄みだけ。

 それと、油は――熱を落としてから」


言い方は淡々としていた。

責めてもいない。慰めてもいない。

ただ、“そういうものです”と言うみたいに。


ハルは頷いた。

悔しいのに、反論の言葉が出ない。


「次は、そうする」


ユマはそれ以上言わず、手を洗って帰った。

鍋の失敗だけが、居座ったまま残る。


ハルは帳面を開き、炭で一行だけ書いた。


石鹸 失敗

灰と油 損


たった一行で、胸が軽くなるわけじゃない。

けれど、書かないよりはましだった。


――手は、止めない。


ハルは鍋を片づけ、外套を掴んだ。

鑑定の返事が来るまでに、次の段取りを進める。





夜明け前。


家の外へ出ると、空気が薄くて固い。息を吸うたび、喉の奥が乾いた。


今日は市ではない。次の五の日までに、売り物を増やす。


工房へ出す分の樹脂も、約束どおりに揃える。約束は、商いの骨だ。折れたら戻れない。


ハルは背の袋を確かめ、森へ向かった。


森は暗いほど、見えるものがある。


光る樹皮の筋は、夜のほうがはっきりしていた。木の裏、岩の陰、湿った裂け目。目が慣れてくると、余計な光まで拾う。


欲張らない。必要な分だけ。


指先で剥がし、布で受け、袋へ滑らせる。手はもう迷わない。迷わないぶん、考えが戻ってくる。


工房に預けた欠片。媒と呼ぶかもしれないもの。


あれがもし、本当に薬を繋ぐなら。


繋がるのは薬だけじゃない。治療院の顔。工房の縄。こっちの暮らし。全部が、同じ糸に結ばれてしまう。


それが嫌で、背中が冷えた。


切れ間に出ると、ガルムがいた。


木陰の奥、銀の毛並み。こちらを見ないまま、鼻先だけが動いた。


『手は動くようになったか』


「動かしてるだけだ。まだ、足りない」


『足りないと言えるうちは、まだ折れていない』


慰めでも励ましでもない。事実の言い方だ。


それが逆に腹に落ちる。


ハルは袋の口を締めた。


「次は獲物だ。油と、肉と、皮。店先に並べる分がいる」


ガルムは低く息を吐いた。


『付いて来い。今日は浅い水場だ』


歩き出す。枝を踏まない場所だけを選ぶ歩き方を、ハルは少しずつ真似るようになっていた。


水の匂いが近づく。苔と泥の匂い。冷たさが足首から上がってくる。


小さめの水トカゲが石の間にいた。前みたいに馬鹿でかいのじゃない。持ち帰れる大きさだ。段取りを覚えた分だけ、欲が抑えられる。


ハルが縄を回し、ガルムが一歩、影を落とす。


獲物は暴れ、すぐ静かになった。


森の縁まで。


ガルムが獲物を引き、ハルが樹脂の袋を背負う。泥に筋が残る。だが森の中ほどは通らない。人目につく前に終わらせる。


縁でガルムが止まった。


『ここまでだ』


「……助かった」


ガルムは返事をせず、森へ戻っていった。背中が消えるのを見送って、ハルは息を吐く。


ここから先は、人の手だ。


道の脇に荷車があった。


オウが腕を組んで待っている。肩が厚い。冬の空気の中でも、腕だけで温度を持っているように見える。


オウは荷を見た。獲物を見たのではない。地面の筋を見た。


視線が一度だけ止まり、次に外れた。


何も言わない。言わないまま、手が動く。


「積むぞ」


「頼む」


オウは板を敷き、布を噛ませ、縄を二重にした。力任せじゃない。段取りで荷を守る手つきだ。


荷車が動き出す。車輪が泥を噛む重い音が、朝の道に残った。

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