第28話 止めない手
ハルは帳面を閉じ、火を落とした。眠りは浅い。
目を閉じれば、あの欠片の冷たさだけが指に残る。
鑑定に出した包みは、もう工房の奥だ。
扉の向こうへ消えた瞬間、胸だけが取り残された。
返事が来るまで、やることがない。
――いや、やることはある。多すぎる。
※
ハルは朝から火を起こし、鍋を掛ける。
石鹸だ。
油がある。灰もある。
匂いを落とせれば、手も、道具も、少しはましになる。
治療院だって、清いものを嫌うわけがない。
(……できるはずだ)
そう思った時点で、もう危ない。
“できるはず”で、今まで何度転んだ。
灰を溶いた湯へ、油を細く落とす。
かき混ぜる。かき混ぜる。
白く濁る――ところまでは、よかった。
次の瞬間、鼻を刺す匂いが立った。
焦げじゃない。灰の、えぐい匂い。
指先が、じり、と熱い。
「……濃い」
水を足す。
今度は薄い。
薄いのに、匂いだけは残る。
固まる前に分離した。
上に油、下に灰水。
見た目だけでも、もう負けている。
鍋を見つめたまま、ハルは息を吐いた。
失敗すると、急に静かになる。
火の音だけが、やけに大きい。
――捨てるのは、惜しい。
でも、売り物にはならない。
そのとき、戸口で足音がした。
「……旦那」
ユマだった。
手を洗いに来ただけの顔で、鍋を一目見て止まる。
「灰が強すぎます。
粉じゃなくて、上澄みだけ。
それと、油は――熱を落としてから」
言い方は淡々としていた。
責めてもいない。慰めてもいない。
ただ、“そういうものです”と言うみたいに。
ハルは頷いた。
悔しいのに、反論の言葉が出ない。
「次は、そうする」
ユマはそれ以上言わず、手を洗って帰った。
鍋の失敗だけが、居座ったまま残る。
ハルは帳面を開き、炭で一行だけ書いた。
石鹸 失敗
灰と油 損
たった一行で、胸が軽くなるわけじゃない。
けれど、書かないよりはましだった。
――手は、止めない。
ハルは鍋を片づけ、外套を掴んだ。
鑑定の返事が来るまでに、次の段取りを進める。
※
夜明け前。
家の外へ出ると、空気が薄くて固い。息を吸うたび、喉の奥が乾いた。
今日は市ではない。次の五の日までに、売り物を増やす。
工房へ出す分の樹脂も、約束どおりに揃える。約束は、商いの骨だ。折れたら戻れない。
ハルは背の袋を確かめ、森へ向かった。
森は暗いほど、見えるものがある。
光る樹皮の筋は、夜のほうがはっきりしていた。木の裏、岩の陰、湿った裂け目。目が慣れてくると、余計な光まで拾う。
欲張らない。必要な分だけ。
指先で剥がし、布で受け、袋へ滑らせる。手はもう迷わない。迷わないぶん、考えが戻ってくる。
工房に預けた欠片。媒と呼ぶかもしれないもの。
あれがもし、本当に薬を繋ぐなら。
繋がるのは薬だけじゃない。治療院の顔。工房の縄。こっちの暮らし。全部が、同じ糸に結ばれてしまう。
それが嫌で、背中が冷えた。
切れ間に出ると、ガルムがいた。
木陰の奥、銀の毛並み。こちらを見ないまま、鼻先だけが動いた。
『手は動くようになったか』
「動かしてるだけだ。まだ、足りない」
『足りないと言えるうちは、まだ折れていない』
慰めでも励ましでもない。事実の言い方だ。
それが逆に腹に落ちる。
ハルは袋の口を締めた。
「次は獲物だ。油と、肉と、皮。店先に並べる分がいる」
ガルムは低く息を吐いた。
『付いて来い。今日は浅い水場だ』
歩き出す。枝を踏まない場所だけを選ぶ歩き方を、ハルは少しずつ真似るようになっていた。
水の匂いが近づく。苔と泥の匂い。冷たさが足首から上がってくる。
小さめの水トカゲが石の間にいた。前みたいに馬鹿でかいのじゃない。持ち帰れる大きさだ。段取りを覚えた分だけ、欲が抑えられる。
ハルが縄を回し、ガルムが一歩、影を落とす。
獲物は暴れ、すぐ静かになった。
森の縁まで。
ガルムが獲物を引き、ハルが樹脂の袋を背負う。泥に筋が残る。だが森の中ほどは通らない。人目につく前に終わらせる。
縁でガルムが止まった。
『ここまでだ』
「……助かった」
ガルムは返事をせず、森へ戻っていった。背中が消えるのを見送って、ハルは息を吐く。
ここから先は、人の手だ。
道の脇に荷車があった。
オウが腕を組んで待っている。肩が厚い。冬の空気の中でも、腕だけで温度を持っているように見える。
オウは荷を見た。獲物を見たのではない。地面の筋を見た。
視線が一度だけ止まり、次に外れた。
何も言わない。言わないまま、手が動く。
「積むぞ」
「頼む」
オウは板を敷き、布を噛ませ、縄を二重にした。力任せじゃない。段取りで荷を守る手つきだ。
荷車が動き出す。車輪が泥を噛む重い音が、朝の道に残った。




